王様の耳はロバの耳 2000.4
〜芽が出て ふくらんで〜 は〜なが咲いたら…〜
2000年4月26日
『猿の惑星』
先日、美容室に行ったら、「お客さんみたいな顔の人は、おもいきり短いのが似合いますよ」といわれたので、おまかせすることにした。終わったところで鏡をみると、そこには猿が一匹いた。ウッキー。
その美容室は友人に紹介してもらったところで、友人もそこにかえたばかりだった。久しぶりに会った彼女を、私は、「ちょっぴりお猿さん」と思いながら口には出さずに眺めていた。しかし、良く似合っていたし本人も満足そうだったので、紹介してもらうことにした。そして、話ははじめに戻る。
もしかしたら、あの美容室では、来る人ごとに「短い方が似合いますよ」と囁き、お猿さんヘアーにしているのかもしれない。一人また一人と増やし、その究極の野望は、世界中の人をお猿さんにして、地球を「猿の惑星」化しようというものだろう。きっとそうだ。そうにちがいない。私もその野望に一役買うために、新しいお客を紹介しよう。猿の惑星、万歳。(京)

『おーコワイっ』

先日、取次に見本を持っていくときに市ヶ谷の駅で、ケンカの現場に居合わせてしまった。はじめはどちらからかぶつかってそれについて一人が怒りだした。朝からすごい剣幕だ。血圧も上がりそうなくらい血管も切れそうだ。般若の面をかぶったようになった若いサラリーマン風の(といっても20代後半か?)男が、ちょっとラフなカッコをして30代後半くらいの男につかみかからんとしているところだった。
「なんだよ。おまえからぶつかってきたんじゃないか!」と30代の男につかみかかって顔を殴っている。殴られた方も怒りだし、ケンカに。駅員二人で引き剥がす。30代の男はニヤリとしながら「今、あなた殴りましたよね。」と冷ややかに言う。はじめに怒りだした男の方をさもばかにしたように。
私にはどちらが悪いか既に判断が出来なくなっていた。定期入れが遠いところに飛ばされていたので、静かに落ちていたかばんの近くに置くと、その場をはなれた。よく、歩いていて人にぶつかり、なにも言わないで、当たられた人を怒らせてケンカになるという光景は見てきたが、今のすさんだ世の中をいっぺんに縮図として見たような気がした。大勢の人が暮らす東京で自分の行きたい方向にはいつも激しい流れのように人が行き来している。まっすぐ歩けない。行きたい方にいけない。ときには人にぶつかる。ぶつかるのは明らかに無理して歩いてきた一人が悪い場合もあるが、お互い様のことの方が多いようだ。「ごめんなさい」といったことによって相手も和むことも多い。もちろんあまり悪くないときにも一声かけるが、そんなとき睨まれたり、舌打ちされると、逆にあたまに来たり、時には悲しくなる。玄関の鍵を閉めて暮らす生活があたりまえになってきた。こわいことだ。(やぎ)


『インターネット書店』

TRCが日経などと組んで7月からブックワンを開設する。とにかくインターネット書店をめぐる動きは急である。大手取次が、迅速な出荷をめざして大型倉庫の建設計画を発表し、大量在庫を確実にするために出版社を集めて説明会を開いた。
紀伊國屋などの大型書店は、こうした動向をにらんで早くから着々と体制を整えてきている。これから生き残りをかけた激しい競争が始まる。
出版社としては、本のデータを、インターネット書店で扱ってもらうことと、何よりも商品価値のある本を出すことが大切だろう。しかし、商品価値のない本とは何なのか。これが問題である。(宮)


『体にいい話』
沖縄茶が体にいい。なかでも「琉球王朝」。食後に一杯、熱い湯で煎じて飲む。味はウーロン茶ほど薬っぽくなく、杜仲茶に似たくせを持つ、けれどあっさり味。食後に必ず一杯。すると、数時間後おなかにたまっていたものが、自然とするすると体から出て行く。以前から別段体質を気にせずに、毎日欠かさずごはんをぱくぱく。でも何度トイレにこもっても劇的な瞬間に出会わないまま日々を過ごし、気づくとおなかがぱんぱん。肝心なモノ(¥)を貯めずに、こんなモンばかり貯めてからにと、ぼやいていた。市販薬で解消しても、効き目はほんの数日。服用を繰り返していると、その性(しょう)の強さに体が受け付けなくなっていた。今じゃそんな日々が嘘のよう。お茶の持つ力は、驚異的である。飲みはじめて三ヶ月。その効果が骨の髄まで浸透してきたのか、それとも体の一部の問題が解決すると、不思議と他への負担も軽くなるものなのか、最近ではひどい肩こりもなくなった。今やすっかり沖縄茶の虜である。便秘や肩こりでお悩みの方、おすすめです。一般のお茶に比べたら、少々値がはるので、やはり肝心なモノはなかなかたまらないけど。(かわら)

『捨てられない物』

いよいよ来週に引っ越しを控えて、いろいろな手続きが着々と進んでいる。しかし、いろいろな荷物の梱包がなかなか進まない。前日まで使わなければならない物が多いのと、私の「捨てられない病」が災いしているのかもしれない。ゴチャゴチャしてしまってなかなか片づけられない。(なんでもかんでも段ボールにつめこんでいる)
こういう時は(もう、いろいろと物を買うのはやめよう!)と思うのだが、新しい生活が始まってみると足りない物があると買ってしまう。こうした性分は親から子へ受け継がれていくようで、私の母も祖母も、さらにはコドモまでもが「捨てられない病」のようだ。
その“おかげ?”であまり引っ越しゴミを出さずに済みそうだ。(リュウ)

2000年4月18日
『ひまなときは人間観察』
わたしはとても人見知りをする。この会社に入ってから普通に会社の人たちと話せるようになるのに、なんと半年以上を必要とした。その間、けっこう孤独な気分のときもあるのだが、結構楽しい。いろんな人の行動を見ていて思うのは、クセのないひとはいないということだ。クセというとニュアンスが違うが、個性はいつでもにじみ出ているのだと思う。人と話が出来ないからこそ、その空いた頭でまわりの空気を敏感に感じることが出来たのかもしれない。それが私の個性だと思う。
今は何年も同じ会社に勤め、まわりの人にもなれて、普通に話をするようになった。前ほど人をよく見ることをしなくなった自分に気付いた。今日誰が休みだったかもわからない。多分わたしは安心しきっているのだろう。大勢の人の中で一人でいるときには無意識に自分の味方というか、自分の居場所を探していたから人を見ていたのだろう。逆に外ではタダ単に楽しみとして観察できるのでゆとりがもてる。本も持っていないのに長時間電車に揺られるときなどは、様々な人たちが行き交うのを見るだけで楽しい。私は変な人かなあ。(やぎ)

『モラル』

引っ越しを5月に控えて、契約書をもらいに行った時のこと。
「入居者の心得」みたいな冊子をもらって内容を良く読んでみるとなんだかおかしい。と言うのも「ゴミはゴミ出し日に出しましょう」とか「廊下では騒がない」等々当たり前の事がびっしりと書いてある。まあ大勢に配る用なので事細かに書いてあって親切なのかもしれないが、逆に考えるとそれだけ入居者のモラルが無いって事なんだろうか?
さらに追い打ちをかけるように一文添えられていた。「入居者同士のいざこざには介入しません」と。管理者からすれば、隣がうるさい、ゴミを当日に出さない、といちいち相談されていてはたまったものではないだろう。話し合えばお互いに納得して解決できる事を、結局は無神経だったり言葉が足りないがためにいざこざになってしまうのだろう。
気にしない(いわゆる無神経)タイプの私は少し気を付けなければいけないかもしれない。(リュウ)


『まちなかキス』

最近、街で若者たちのキスシーンをよく見かける。このあいだも駅で見かけたカップルのは、おもわず「うげっ」となるようなのだった。「チュッ」ってかんじで、さりげな〜くしてるカップルもいるのにさ。
キスシーンをきれいに見せるために大切なのは「さりげなさ」だとおもう。軽い挨拶ってかんじののりがいいのだ。日本人の町なかキスは、どうもまだそこまで進化していないようだ。テレビや映画のキスシーンがきれいなのは、見た目がいい男女が見られることを前提でやってるからなんだぜ! 普通顔の一般人が表でやるんなら、それ相当に気を使え。へたすると目もあてられないようなきったねーものになって、それを見せられる方にもなってみろ。「人に迷惑かけてないんだから、いいでしょ!」といういいわけは通用せん。と、ちょっと興奮してしまいました。ええ、けっして独り者のひがみではありませんよ。だってねー、このあいだの駅のカップル、なんかじめ〜としてて、めしがまずくなりそうだったんだあ。みなさん、他人が見て「おっ」とおもうような、おしゃれなキスを練習するように!(京)


『街道をゆく』
司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んでいる。朝日文庫で全43冊あるから、当分楽しめる。「韓のくに紀行」と「台湾紀行」を読んだのだが、これは「文芸春秋」で言及されていたのを目にして、読むことにした。司馬さん晩年の学識と歴史観、人間観がしっかりと支えてくれている作品だが、作中でとりあげた人物や、同行者、取材協力者など、人に対するやさしい目と心が印象的である。
読み始めたきっかけを作ってくれたのは「文芸春秋」だが、改めて、作品を紹介することの大切さを認識させられた。良き紹介を経て、良き作品にめぐり会うことができるのだ。(宮)

『あのころ』

公共の場での喫煙、歩き煙草、マナーのない吸い方には気になることが多い。煙草って必要なもの?と思うのだが、煙草には懐かしい思い出がまつわっている。自由気ままな学生のころ。授業の合間に、食堂や部室にたまり、語りながら煙草をすぱすぱ。人生論、演劇論(演劇科の学生だったため)、恋愛論を織り交ぜながら、煙をぷかぷか。相手に負けまいと格好つけて、私にもくれと一本二本。金はなくても、時間は無限に。議論は白熱。吸い殻は山に。外はだんだん薄暗闇に。そうした学生のたまり場はいつも紫煙に包まれて、人がはけたあとは、語り明かした余韻とヤニ臭さだけが残った。格好つけて吸っていたので、煙草の味なんて覚えてない。背伸びばっかして、青っちろいころだった。人が何を思って煙草を吸うのかはわからない。大した理由なんてないのかもしれない。私にとっては好奇心と背伸びの象徴だった。
今はまったく吸わない。身近にも吸う人はほとんどいない。職場で吸う人は、みな喫煙コーナーで吸う。時折、煙草を吸うお客さんがみえる。先日その人と同席した時に、久しぶりに煙草の匂いをじっくり嗅いだ。自分がずいぶん煙草と縁のない生活を送って久しいかを実感した。今自分が吸わないだけに、煙草の匂いにあのころのことが懐かしく思い出される。(かわら)

2000年4月11日
『遙かな尾瀬〜』
友人の誘いで、7月に尾瀬に行くことになった。高校1年生のときに遠足でいって以来だ。最近中高年の人たちが山登りや、ハイキングにはまるように、私達もひたすら渋谷や原宿、恵比寿などの街ではなく、ひたすら山や温泉に向かうようになった。気が付いたら中年ぐらいの仲間入りは、あと数年で出来そうである。尾瀬と言えば、永遠に続く木道(もくどう)、沼、水芭蕉だろうか。基本的に7月は水芭蕉の季節は過ぎているので、残念だが、木曜日の夜に出発して、金曜日もお休みにすれば、4日も自由に行動できる。尾瀬は日光にも近い!ということで、ちょっと強行な予定を考えた。尾瀬はツアー(現地自由行動の)だが、帰りはその足で日光に向かい、日光も堪能しようというのだ。今からむずむずする。ついつい、心の中で尾瀬の歌を歌いつつ、はたしてツアーをどう抜けるかを考えているところである。うーん難しい問題だ。(やぎ)

『図書館の本』

「犬の一生」(マーク・ストランド著、村上春樹訳)という本の装幀がとても好きだ。ざらざらする手触りの赤っぽい紙に、黒いペンでぽそっと犬の絵が描いてある。さっぱりしているのに余韻があって、本棚のすみっこでこの本を見かけたら、ふっとなごむ気がするだろう。
 でも、ひと度これが図書館に入ってしまえば、ビニールのカバーで覆われて、手でさわった感触も、他の本とかわらなくなってしまう。それは残念なことだけど、たくさんの人に何度も読まれるためには、仕方のないことなのだろう。それはわかっているけど、でもやっぱりなあ、とおもう。
 いっそカバーなんかしないで、古くなったら同じ本を新しく買い直せばいいのに。100冊の本を購入する予算があれば、50冊の本を2冊づつ揃え、古くなった本は利用者に安くゆずる。ベストセラーは簡単に手に入るし、少したてば古本屋でうんと安く手に入れることだってできるのだから、そうではなくて、いつのまにか書店で姿を消してしまう、または、なかなか書店に置いてもらえない本を揃えられないのだろうか。そうして選ばれた本が並んでいれば、図書館はもっと密度の濃い場所になる。本を借りにきた人たちはベストセラーに集中せず、まんべんなく同じ本を手にとる機会が多くなる。そして、いつの間にか知らない者どうしが、同じ本をいくつも読んでいる状況が生まれる。その人たちが、いつか読んだ本について語り合うとまでいかなくても、図書館という空間と、同じ書物を共有する喜びで満たされるだろう。ごくごく私的な図書館への願望でした。(京)


『目』

体重100トンもある「白ながす鯨」の背中にカメラをつけて、いわば鯨の目で海中の景色を見るというニュースがあった。高速で動き回る、スリルに満ちた映像だった。ほんの少ししか映さなかったのが残念だったが…。
目の位置で景色がまるで違って見えるのは当たり前のことだが、同じものが別の姿に見えるのは新鮮な驚きを生み出す。
会社の3階の窓から甲州街道のけやき並木が見えるのが、1週間のあいだに葉が全く出てない状態から、新緑に輝くまでに変化した。この並木を、歩道を歩きながら眺めるのと、窓を通して木の上部にうっそうと生い茂る様をみるのとの対照の妙、窓から見えるのは枝が複雑に交錯する森の中の景色である。(宮)


『ゴールデン復帰も近いか!?』
先週の金曜日に観に出掛けた人もいると思うけど、東京ドームでのプロレス生中継!何でもゴールデンタイム(8時台)復帰は8年ぶりだそうで、すごい熱気だったよね!残念ながら私は家で観させてもらいました。テレビの前ながら興奮して「橋本〜!そこだ〜!」とコドモと一緒に大絶叫!(もしかしてすっかりプロレスファン?)また以前のようにプロレスをゴールデンタイムに観られる日も近い?…かもしれない。
*3月28日で私が紹介した、砧公園の自転車練習場(自転車無料貸し出し)は3月末で閉鎖されてしまったようです。週末は結構利用者がいたのにな〜。また、楽しみに公園へ出掛けた方すみませんでした。(う〜ん、残念)(リュウ)
2000年4月4日
『春について』
春は気持ちが落ち込む季節であるということは、心理学の方ではわりと一般的な話らしい。この時期、花見、花見、と浮かれるのは、沈みがちな心をひきたたせるためなのかもしれない。
私は中学に入学したときからこの季節が苦手になった。新しいクラスには小学校時代の友だちが一人もいなかった。それから、毎年かかすことなく春になると別れがやってくることを知った。
いまは、そんな折り目正しい別れがやってくる生活が、懐かしくおもえるほど遠くにいるけれど、10代から20代にかけて積み重ねた別れの季節の記憶は、いまも心にこびりついている。(京)

『パラサイトな関係』

最近「パラサイト(寄生する)シングル」という言葉を良く耳にするが、要するに「子離れできない親」と一緒に暮らしている「親離れできない子ども」っていうことなんでしょ?親と同居というだけでは一概にそうだとは言えないが、そういう親子関係って実は小さい頃から始まっていると思う。親からすれば子どもが小さい頃に出来なかったことをずっと引きずって、いい大人になっても何にも出来ないと思いこんでいる。
「生きていくこと」を小さい頃から教えてもらえない子ども…。親も子どもに過剰な期待をし、寄りかかりながらしか生きられない。親が決めた生き方しかできない。そんな大人が増えているのかと思っただけでも恐ろしい。
親が元気な間はそれで済んでしまうかもしれないが、その後どうするのかな?親子関係全てを断ち切るとかではなく、お互いが心のどこかで支え合っている気持ちがあればね…。文字や数字を多く覚えるのもいいけど、「生きていくために必要なこと」をもっと教えた方がいいんじゃない?っと人の振りみて…じゃないけど自分への教訓かな〜?(リュウ)


『マスク』

今年は花粉症の当たり年で、ここ2ヵ月近く、マスクマン生活を強いられている。街行く人の中にちらほらマスクマンが紛れていると妙な仲間意識を感じてしまう。たいてい皆、白くて四角いマスクなのだが、中には花粉症専用のからす口のマスクや殺人鬼ジェイソンのお面を半分に割ったような、穴のぽこぽこ空いたマスクを見かける。何を血迷ったか画材屋で100エンくらいで手に入る紙製の防塵用マスクをつけた人もいた。しかし、豆腐のような真っ白、真四角物体が、顔の約半分を覆うのはやはり不自然で、遠目からでもマスクだけが浮いてしまい、ちょっと不格好なのである。そのため、高校生くらいまではマスクをつけるのが嫌で嫌でしょうがなかった。鼻水の垂れそうな鼻をさらけ出しているほうがよっぽどみっともないのだが、若さ故、おしゃれ意識が先行していたのだろう。しかし、人間、年も取れば少しは自己管理意識が働くもので、見た目よりも抑えるのが先決!と、今ではマスクを常備し、必要に応じて着用するようになった。それでもたまに服の配色とマスクの色が合うときは、「なかなかおしゃれじゃないか」と嬉しくなる。マスクとおしゃれの間で悩んでいる人は多いのではないか。そのうち、ファッション界にマスクを取り入れたスタイルが出てきたらおもしろいのに。(かわら)


『春だ、春だ!』
先週、夜に甲州街道を歩いていた。一緒に歩いていた同僚のSさんがなぜか道をお先にどうぞの仕草で促したので先を歩くことにした。ふと足下を見るとおおきなひきがえるが(?)のっそりと歩いていた。気付かずにあるいていたため、あと数pのところで危うく踏みつけてしまうところであった。Sさんは気付いているものと思ったらしい。それにしても甲州街道をウロウロしていたらいまに車道でなかったからよかったものの、誰かに踏まれてしまうかもとは思いながら、こんな都会のなかでも生きていく小さな命にちょっと感動したりもした。かえるからも春をおしえてもらった。桜も咲き始めた。少し足取りが軽くなる季節だ。(やぎ)

『いちょう』

いよいよ桜が咲き出した。桜に目を奪われるが、周りの木々はすっかりピンクになり、桜が終わると、一斉に葉を出し始める。甲州街道のけやきはもう小さな葉を出し始め、若緑にかすんでいる。そのあと、じきに新緑の季節になるわけだが、なかでもいちょうはまた格別美しい。街路樹としてのいちょうは、本当の姿ではないだろう。毎年のように几帳面にはさみを入れ、形を整えている。人が手を加えないで自然のままにしておいたら、一体、どんな姿になるのかと思う。一本だけ孤立してるときと、森の中にあるときとでは、姿がまた違うのだろうと思うが、とにかく自然の姿を、我々は知らないわけだ。
いちょうというと、たとえば絵画館前のあの円錐形に整形された並木を思い起こしてしまうのは、われながら人工的な感覚にならされてしまったものだと思う。(宮)


『またはまってしまいました』

聖蹟桜ヶ丘のとある書店の児童書担当者の人と、好きな絵本やおもしろい読み物、児童書について熱く語りました。その中で「これ面白いよ」とある本を勧められました。それは大手出版社の○○○文庫の大人も隠れて読んでいると噂の、探偵が活躍するシリーズでした。その場で一冊買い求め、読んだらこれが面白い!!
そういえば その昔、まだランドセルを背負っていた頃、江戸川乱歩の明智小五郎シリーズにおもいっきりはまり、しつこいほど一巻目から何度も借りていた事をふっと思い出した。それと共に「はまるな…」と確信した。そして…気がついたら1週間で最新刊までそろえてしまった(合計8冊)。大人向けのものは難しいという先入観がぬぐいきれず、大人になってから、ミステリーを読まなくなっていたのですが、はまったらやめられない魅力があるのだと、ミステリー本が売れてる理由をちょっと理解できた出来事でした。(みなりん)