王様の耳はロバの耳 2000.6
〜ジメジメ、カビカビ、ヌルヌル注意報〜
2000年6月27日
『新古書店』
最近話題になっている『朗読者』が読みたくて、会社やアパートの近所にある中小の書店を五、六軒まわって探したが、結局見つからなかった。そのうち二軒は店員が本の存在さえ知らず、話題になってるのは、私のなかでだけ? と不安になった。しかし、最後の書店が「いま版元が増刷中で、今月の終わりに入ります」と教えてくれたので、なんだそうかあ、と納得した。
しかし、私はすぐに読みたかった。それでいて、当然平積みにしてある大型書店まで電車を乗り継いで行くのはおっくうだった。読みたい本が読めないときは、何を読んでも頭に入らないので、仕方なく近所のブックオフへ漫画を漁りに行った。
私は新古書店は、貸本屋として利用するもの、書店とは別のものと考えている。たとえ大手の新古書店がファストフード店のような明るい外観を備えていても、その本質は、手垢のついた漫画を、顔は知らないが趣味は同じ大勢の人と共有するマニアックな空間であり、そこにある種の連帯感が漂っているのを感じていた。そして、それこそ貸本屋の雰囲気に他ならず、「自分だけの本」を買う書店とはちがうと考えていた。しかし、そのブックオフで、私はなんと『朗読者』を見つけてしまった。しかも定価の半額で置いてある(当たり前か)。考えるよりも早く手を伸ばし、レジに並んでしまったが、なにやら後ろめたい気がした。書店も新古書店もどちらも必要な私にとってはうまく共存してほしいが、新品同様の『朗読者』を見ると、同じ土俵で闘うのはちょっと厳しいだろうなあ、とおもった。(京)

『虫の声』

私の住んでいる所は、もともと丘陵地帯だから、夜ともなれば本当に静かになります。夜になって室内で音といえば性能の良くない冷蔵庫の音ぐらいなのに、1ヶ月くらい前から玄関に行くと下の方から虫の声があがってくる。
ドアを開けたら、それはそれはすごい音がします。虫の鳴き声と蛙の鳴き声が一緒になってあがってきます。公団の建設予定地が未着工のままで雑草が生い茂りそこから虫の声、蛙の声が出ているのです。梅雨時に虫の声は早すぎるのかどうか改めて考えてみて、よく分からないがオーバーに言えば毎日耳を聾するばかりの音の洪水を耳にしながら帰宅のドアを開けます。(宮)


『気になる』

『朝、出勤の為いつもと同じように京王井の頭線に乗りました。実は「ちょっといいな」と思っている人が途中の駅から乗ってくるのですが、その日愛しの彼は私の左隣に立ったのです。「朝からラッキー!!」と思っていたのも束の間、なんと私のズボンの左サイドのチャックは全開になっていたのです。隠そうと思い右肩にかけていたバックを左側に持ち替えたとたん今度は右サイドのチャックが全開になっていることにも気がつきました。「どうしよう」と悩んでいると後ろから「チャック開いてますよ」と女性に言われた。後ろのチャックもが全開なのだ!そして視線を感じ前を見るとおじさんが私をじっと見ている。なんと前のチャックも全開ではないか!私のはいているズボンは前後左右にファスナーのあるズボンなのだ(そんなのあるかーっっっ)なぜかチャックを閉めることなく電車を降りた』
と言う夢を見ました。夢は心理状態を表すと言いますが、今の私はどんな心理状態なんでしょうか?気になります・…。(みなりん)


『憧れ』
このジメジメの時期になると決まって南の島に憧れる。周りがぐるっと碧い海で囲まれていて白い雲を眺めながら波の音に埋もれる、と想像しただけでもゾクゾクしてくる。3年前に訪れた新島(東京)へ行ってから海へのイメージがだいぶ変わったのかもしれない。それまでは海といえば新潟の方の日本海の色しか見たことが無かった。さらには山に囲まれた田舎で育ったせいか海への憧れも人よりも強いのかもしれない。
そして決まってこの時期になると「島に行きた〜い!」と叫ぶのであった。(リュウ)

旅行前につきパニック中!!(やぎ)

2000年6月20日
『いつまでも…友人』
先週は中学校時代の友人から電話があった。
「私。分かる?久しぶり」
「えっ。誰だっけ?」
そのような会話から始まった。中学校以来ほとんど顔を会わせることもなかった人なので電話が来ても最初分からなかった。
こんな時の電話は私の今までの経験上あまりいい話ではないのだ。案の定、
「今度選挙あるでしょ?○○党に入れてくれる?」
「う…ん…。」
やっぱりだった。某政党では選挙前になると必ず電話が来る。なんだか久しぶりの電話なのに少しがっかりしてしまう。もう少し会話があってからなら話は別だが、いきなり「誰々に一票を…。」ではそれだけの為に電話をしてきたのも同然だろう。私があまり以前の友人と接触を持たないのもそういった嫌な思いを過去にもけいけんしているからだ。大人になればそれぞれ違った生活・思想をもって生きていて、たまのクラス会で「久しぶり。」と再会するのが自然の成り行きと思っている。
そして次の日、メールではやり取りをしていたが3年くらい会っていなかった別の友人が突然泊まりに来た。前日に少しがっかりしている私に一抹の不安がよぎった。「久しぶり。元気?」とやってきた彼女は
「本当はビックリさせようと思ったんだけど…」で始まった。
「証人になってくれない?」
「もしかして借金の連帯保証人のこと?」と聞いた私に
「まさか!私、結婚するから婚姻届の証人の欄に記入して。」
ホッとした。さらに驚きと喜びが込み上げてきた。「おめでとう。良かったね。」
久しぶりの再会は結婚の報告だった。式はあげずに婚姻届を提出のみだが何はともあれ良かった。昔の友人に会うにはこうでなくっちゃつまらないと思っているが、現実は「苦しいときの…」に成りがちな関係を続けている人達の方がずっと多いのかもしれない。(リュウ)

『不毛の選択』

総選挙の投票日が間近に迫ってきた。四十数年住み慣れた所から引っ越して初めて分かったことだが、総選挙に限らず、選挙ごとに出てくる候補者になじみがなくて、投票意欲がわいてこない。長年住み慣れるということの意味を再認識させられるのである。候補者になじみがなければ政党を選ぶという考え方もできるが、政党がまた離合集散を繰り返していて、それに候補者個人の行動がくっついているから、そう簡単に納得して投票することができない。ひとことで言えば政党も候補者個人も信用できないという思いが先に立つ。結局、もっと大ざっぱに割り切って、とりあえず現状維持なのかどんな内容であれ変化した方がいいのか自分の考えを決めて、あとは目をつぶって投票するほかなさそうである。(宮)


『厚顔無恥』

新刊書を購入した母は、レジで大きな声で、
「おとーさん、これ、帯もカバーもついてるから、古本屋に売れるわよね」
とのたまったらしい。挙げ句、本に挟んである売上カード(スリップ)もつけておいてくれたら価値があがるんじゃないかしらと。勘定に忙しかった父は、その場では黙って聞いていたらしく、家に帰ってから、母を諫めていた。私もこの話を聞き、半ばあきれた。
なんでもついてりゃ、価値が上がるってもんじゃない。しかも、売上カードは、本が売れたという証拠である。これによって出版社に注文がその書店からくるかこないかがわかれるのである。そのことを母に言うと、
「そんなこと知らんもん」
スリップの役目など、普通は知らないだろう。私だって、この仕事に就いて始めて知ったのだ。でも、何となくこれは書店が必要とするものと、自然と意識が働くはずである。新刊書を買った矢先に、すでに古本屋へのルートを構築しているその思考経路もさることながら、いかにして高く売ろうかという計算高さにも恐れ入る。そしてこの態度。知らないと言うことを正当化する態度は、もう手に負えない。
「無知故の悲劇」というある死刑囚の言葉があるが、この手の無知は書店にとっても出版社にとっても「営業妨害」以外の何ものでもない。おばさんてほんとあつかましい。(かわら)


『下北沢』
下北沢の雑貨屋に蚊帳が2500円で売っているそうだ。さっそく買いに行こうとおもう。リュウさんありがとう。(京)

新刊営業にでかけています。(やぎ)


新刊営業にでかけています。(みなりん)
2000年6月13日
『ベットほしい〜』
ついに恐れていたものが出た。先週の金曜日、台所の壁にはりついているゴキブリを発見してしまった。羽が透明感のある茶色だったから、まだ少年(もしくは少女)といったところか。即退治したがもう油断はできない。これから夏にかけてどんどん増えるだろう。早急に対策をたてねば。
ゴキブリだんごは死ぬほど巻いたし、ゴキブリほいほいも誤って踏んづけるほど置いた。殺虫剤は常に手のとどく範囲に置いてある。しかし、寝てるあいだに出現したらどうすればいいのだろう。無防備の状態でいるところを、顔や足を這われたりしたら……。そこで考えたのが、部屋の中に蚊帳(かや)を吊ることである。これなら、蚊取線香を焚く必要もなくなるし、日本にいながら南国の雰囲気が楽しめる。早速、近所の布団屋(蚊帳は布団屋が扱っているのだ)に訊いたところ、いちばん小さいのでも三畳分あって、一万八千円もすることが判明した。う〜む。蚊帳は私の欲しいアイテムのひとつだが、ちと高すぎる。そこで、おもい至ったのがベットだった。あのツルツルした足には奴らも上って来られまい。しかし、ベットはおもいのほか高価で最低でも二万円近くし、値段の面では蚊帳と大して変わらなかった。
もともと布団派の私は、百貨店の家具売場のベットを眺めながら、これならレースのカーテンをつなぎ合わせたようなものであっても、あこがれのアイテムである蚊帳を買った方がいいんじゃないだろうか、と逡巡していた。そして何気なく側にあるベットに腰かけてみたところ、おもわず「うおっ」と叫んでしまった。正直にいうと、私はそれまでベットを使っている人間に対して偏見を持っていた。あんなふかふかしたもんで寝返りが打てるかっ、だいいち、あんなごっついものは、日本の家屋に合わんっ、南蛮かぶれめっ、という風に。
しかし、このたび無印良品の「脚付マットレス」のほどよい固さと弾力に、ころっとまいってしまった。こんなに簡単に宗旨を変えて恥ずかしいかぎりだが、私は転向した。が、いざ買おうという段になると、私は根本的な問題を忘れていることに気づいた。部屋にはベットを入れるスペースがないのだ。あることはあるのだが、ベットを入れると、コタツを置く空間がなくなる。しかも、ベットを入れたら、引っ越しが困難になるという決定的な事実に気づき愕然とした。その場は、欲しい物がすべて手に入る人生なんてつまらないさ、と自分に言い聞かせながら離れたが、「ベットほしい病」に取り付かれた私は、部屋にある家具とダンボールを使ってマイ・ベットを作ることをおもいついた。まだ製作に取りかかっていないが、設計図は出来ている。コタツとビニールケースとダンボールを使って、その上に簀の子を置き、ありったけの布団を重ねるのだ。こうすれば段差がなくなり、湿気がたまるのを防いでキノコを繁殖させずにすむ。さらに、レースのカーテンを天井から吊り下げて、蚊帳まで作ってしまおうというのさ。自分でもあきれるくらいナイスアイデアだ。再来週には完成する予定だが、成功したらロバ耳でお伝えする。(京)

『贈賞式』

昨年12月に出版した「こども地球白書1999-2000」が産経児童出版文化賞に入賞した。賞は全部で21冊の本に与えられたが、小社の本は一番下のランクの推薦だった。過去にも途中選考までは残ったことがあるが、入賞には至らなかったので、最下位でも、はじめての入賞はうれしい。
6月8日に贈賞式があった。いろいろな言い方があるもので、表彰式とか授与式とか言ってもいいわけだが、贈賞式とはあまり聞き慣れない表記である。(宮)


『いつでも今が一番?』

最近あまりいいことがないが、私は過去に戻りたいと思ったことがない。これはしあわせなことなのだろうなと思う。学校を卒業するまでは、正確には結婚して実家から離れるまでは、常に親の加護の元にいて自由も責任もあまりないような生活から早く自立したい、自立したいと思っていたふしがある。だから社会人になって自分でお金を稼ぐようになって、初めて自分で生きているんだと実感した。お金を稼ぐのは大変なことだ。働いて、そして使う。生きるために、楽しむために、たまには人への贈り物を買ったり。
大人になっていろいろな人と話をする機会が増えた。年齢に関係なくくだらない話から、まじめな話までできるのはすごく楽しい。その時はなんの肩書きもない一人の人間というか存在でいられるからだ。私は基本的にこの人は社長だからといってゴマをすったりできないので、嫌われる可能性も大きいが、そんな肩書きなんかで人をはかり、ゴマをするような人はろくな人間じゃないし、嫌われたってへっちゃらである。でも時として、私もそういうことを無意識にしていたら嫌だなあとも思う。でも、そんなときでも側に「あんた、やばいんじゃない?」って直接言ってくれる人がいるともっといい。朔北社の新刊「どこへいったのジャムタルト」で主人公のジェレミアも「今がいちばんすばらい」って言っていた。まさにそんな感じが今の私にはピッタリだ。(やぎ)


『風呂ばなし』
幼い頃、風呂のない社宅に住んでいた。近くの銭湯に通っていたが、夏になると帰りにかき氷を買うのが楽しみだった記憶がある。風呂がないので、夏の行水は洗濯機。この話を同世代にすると、ひどく貧乏をしていたのかと誤解される。風呂のない所帯など、70年代の終わりでもざらであったと思っていたが、そうでもないらしい。しかし、社宅やマンションの狭い風呂よりも、銭湯の大風呂で、のびのびとつかるほうがいい。いまだに、町中の銭湯にふらっと寄ったり、じじばばのように温泉に足げよく通うのも、幼い頃の影響か。さて、この度、自宅の風呂が改装される。しかも曇り硝子で中の様子がわかる扉に湯船の横っちょに安全手すりが付いた型。お互い、たまに風呂が長引くと、中で沈んでるんじゃないかと心配している。風呂なしに住めるぐらい若かった両親も、年相応の住まい空間を求めつつある。両親は歳老い、我が家に於ける風呂の歴史はまた新たになる。(かわら)

『雨の日でさえ…』

ジトジト、ベタベタするイヤ〜な季節がやってきた。あまり湿度が高い地域で育っていないので「この湿度はどうなっとんじゃい!」と怒鳴りたくなる。しかし私もいい加減大人なので、「梅雨の季節がないと植物が育たないもんね」と自分に必死に言い聞かせている。
「今日もどんよりしてるな〜。」と毎日のようにため息まじりに空を見ている私のそばで、なぜか楽しそうに水たまりに足をつっこんでビチャビチャにしたり、傘をさすのをおもしろがったりしているコドモを見ると、ちょっとは心も和む。
しかし、そんな雨の中でもカッパを着てチャリで通勤している私はたくましいのだ。社長に「雨の日の自転車は危ないからやめなさい!」と言われても、こればかりはやめられそうにもありません。(気を付けて乗ります)
しまいには転んでもいいように柔道の“受け身”をコドモと一緒に練習したいなと思う今日この頃。(リュウ)


『結構かわいいモノ好き』
モノトーン系の服が好きだし、部屋もモノトーン系だし、周りはみんなそういうののみが好きだと思っているようですが、実はかわいいモノも大好きです。
タンスの中にもちょっとかわいい系の服がいっぱいあります。でも、友達と出掛けるときは着るのがちょっと恥ずかしいので、部屋で試着をして満足している毎日です。
少し前、下北沢の古着屋さんでフランス製の白いロングスカートに遭遇。麻の生地に、レースぽい飾りのついた、フランス人形が着ているようなかわいいスカートに一目惚れをして、思わす衝動買いをしてしまいました(¥2000也)。
「夏になったら着よう」と思っていたのですが、その前にどうしても誰かにそのかわいさを自慢をしたくなり、我が家に遊びに来た妹に、着て見せてあげました。
「見て見てかわいいでしょう?」
満面の笑みを浮かた私に妹は一言。
「ださい布団のカバーみたい」
ガーーーーーーーーーーーーンッッッ。
あれからもう1ヶ月は経ちますが、立ち直ってはいません。(みなりん)
2000年6月 6日
『カラスが来るゴミ捨て場の条件』
カラスというのは頭のいい生き物だ。人間様が必至にごみを荒らされないようにあの手この手を使っても、次から次へとビニールの中からいろいろなものを引きずりだして、挙げ句の果ては目当てのものをくちばしにくわえ、散らかしたものはそのままにして飛び去っていく。商店街などはまさにカラスが好む餌場そのものだろう。私もよく、食べ残しやら、使い切れずに腐らせてしまったものをゴミとして捨ててしまうことがあるが(食べ物の神様ごめんなさい)、実は商店街のゴミはまさにその量も質も上質な食べ物の宝庫といえる。商店街はそこに住んでいるわけではない人たちが働いている場合が多く、職場の上が家だという人の割合が圧倒的にすくないので、必然的にゴミの日の前日の夜にゴミをだすことになってしまう。カラスは人通りが多いところにはあまり来ないので、夜にゴミをだしている場所である商店街に早朝のうちに餌を探しにくるのだ。おかげで、早朝にその商店街を通るといやーな気分になる。
カラス退治には、1.まずゴミの上にネットを掛ける2.人通りが多い場所をゴミ捨て場にする。3.食べ物を捨てない(とくに美味しいもの)だろうか。1.2はともかく、3は、私もちゃんと実行しないとなあと思う。買いすぎない、作りすぎない、腐らせないをモットーにカラスちゃんの餌を増やさないようにしようと心に誓うのであった。でも私のところのゴミ捨て場ははマナーが良い人が多いのと小・中・高の通学路になっているため人通りも多く荒らされることはないのだが…。(やぎ)

『子どもは親の背中をみて育つ』

近所の公園での出来事。突然、ダダダダッ……という音とともに川に向かって空気銃を撃っている人が見えた。いったい何事?と思って見ていると川辺にいる鴨か蝶らしきものを狙っているようだ。遠くからなので最初は女の子かなぁ?とよく見ると中学生くらいのやせた少年だった。あまりにも一心不乱に空気銃を撃っているのでゾッとするものを感じた。
ここのところ凶悪な少年犯罪についてニュースでもとりあげられているが、毎日のように流れるニュースが現実のことでないような気がしてしまう。さらにそれを真似をして同じような犯罪を犯す人達。もちろん悪さをする中・高生はいたけどここまで凶悪だったのだろうか?一昔前と何が変わってきたのだろうか。
欲しい物は何でも手に入り、苦労して手に入れる喜びを知らない時代に幼少期におくってしまい(愛情も知らない)、今ではありとあらゆる情報だけが簡単に手に入ってしまう。自分の存在をアピールするために平気で殺人さえも犯す。さらに付け加えれば、自分が法律によって守られていることさえも知っている。
誰かが「子どもを見ればその国の社会情勢が分かる」て言ったけど本当に今の日本の状況がよく分かる。親になって、この事件は人ごとではないと身にしみて思う今日このごろ。
ちなみにその後、空気銃の少年は昔はよくいたカミナリおやじ風のおじさんに注意されていました。こういうある意味では「お節介な人」も必要ですよね。(リュウ)


『最近の言葉から』

街灯もまばらな薄暗い夜道。前を歩くイマドキの女子高生。携帯で楽しげにしゃべる。
女子高生「○○ちゃんってばさー、今朝40分寝坊して、20分早く学校ついたんだってよー。やっぱさー、みんな、パニクってるときってマッハなんだよねー」
おばさん(私)「?」
女子高生「チョー、バリってる、バリってる。」
おばさん「!?」
街灯もまばらな薄暗い夜道。前を歩く女子高生。そのアホな会話。違う意味で襲いたくなった。古文よりむずかしい女子高生言語。特に「バリっている」という言葉は理解の範疇を超える。どうにも気になり、我が家の現役女子高生にその意味を聞いてみた。「バリバリ、がむしゃらにがんばってるよってことじゃない?」と、簡単に女子高生言語公式を解いてくれた。彼女も外で平気でこんな会話をしているのか気になったが、幸い「そんなバカみたいな言葉、ふつうはつかわないけどね」と健全ぶりを示してくれたので、ほっとしている。若者言葉はその世代毎にあるが、今のような全文が擬態語、省略言葉で成り立つのは、人類文化史上、類をみないのでは。せっかく頭が柔らかいのだから、この年頃に、きちんとした日本語、きれいな言葉や丁寧な言葉遣いを身につけてほしい。相手が家族でも友だちでも。言葉はその人の内面をよく表すのだから。
しかし、一番不思議なのは、40分寝坊して、20分早く着いたことか。(それは寝坊とは言わんのでは)やっぱ、パニクってるときはみんなマッハなんだろうね。(かわら)


『さくらんぼ』
芦花公園駅裏の古い住宅公団の団地(もう建築後30年か40年経っている)には、桜の大木があり、花の季節には私の格好の散歩道である。いまは、桜の木の何本かにさくらんぼが実っている。売っているさくらんぼとちがって、自然に実ったものだから、実はごく小さい。実の大半は固いタネばかりといったものである。それが、鳥のエサになっていて、食べたあとの残がいが歩道に沢山落ちている。道を黒っぽい紫色に点々と染めている。ときどきは、まだ食べられる前の小枝ごと落ちている。おそらく、カラスが鋭いくちばしで一撃した結果だろう。小枝を拾い上げてみると、実は小さいが、あざやかな赤で、美しい、桜の大木を見上げると、小さな実をつけた枝ぶりが堪能できる。(宮)

『独り言です』

夢がある。遠い日の高校生の頃から、ぼやけた感覚で、でもしっかりとした目標として私はずっと変わらず持っている。そして、今もそれはぼやけた感覚のままだ。本当の夢であろう真ん中の核を探し、少しずつ確実にそこに近づく為、ぼやけたものへ、とにかく足を踏み入れているけれど、まだ核にあるものが見えないので、少し焦っているのかもしれない。だから、ちょっと弱っている。「ネガティブパワー」炸裂中である。
夢を叶えるためにたくさんの壁が立ちふさがり、障害があることはわかっていた。ない方が楽なのかもしれないが、先の楽しみが倍増すると思えば、それもありかなと思う。でもその中につまらない敵が出てくることはあまり想像していなかった。ライバルはいた方がいい…でもライバルと敵は違うのだ。一生懸命やるのは楽しい、努力も、苦労も楽しい(楽しくはないかも…)。そんなものは目指す場所へ行く通過点にすぎないのだから何て事はない、我慢もできる。でも、自分達の尺度で測れないことだからと言って邪魔をする人がいる、くだらない理由で邪魔をするのはやめてほしいのだ。「知らないふりをしていればいいのだ」とも思うが、それが私には出来ない…性格の問題なのでね。今私が、焦って、苛ついて、自分を責めて、どうしようもない中でもがいている事が、この先振り返った時、決して無駄な時間じゃないと思いたい。だから、いつの日か、遠い未来かもしれないけれど、その人達がニコニコして近寄ってきても、顔だけニコニコしながら、すれ違えるように、着実に夢を叶える為にがんばるしかない。私は根に持つタイプだよん、覚えておいてね。(みなりん)