「カナダ在住の訳者が紹介する1冊」
今回は『暗闇に星が輝くとき』の訳者で現在、日系カナダ人コミュニティー月刊誌「日系の声」日本語編集者の田中裕介さんより本を紹介していただきました。

日系カナダ人女性の生活史 南アルバータ日系人社会に生まれて
              村井忠政著   明石書店

日系カナダ人に対する謝罪と補償(リドレス)が達成された後に持たれた最初の全国規模の会議は、「日系高齢者会議」と銘打たれ、一九八九年十月にアルバータ州カルガリーで開かれた。開催地がバンクーバーでもトロントでもなく、カルガリーだったのは、日系社会内部の政治力学は別として、日系コミュニティーの高齢化を考える会議であるならば非常に順当な選択だった。というのは、アルバータ州は日系人人口で見るとブリティッシュ・コロンビア州、オンタリオ州の次に位置しているからだ。この書の舞台として中心に据えられているレイモンド市は、エドモントン、レスブリッジ、カルガリー等の平原州の日系コミュニティーに比べると注目されることは少ないが、日系人の歴史は極めて古く、また、カナダ仏教会史を語る時には避けて通れないほど確かな日系史の流れが、今日まで続いている地なのである。
 もう一つ、この地域に特徴的なことは、戦時の強制移動や財産没収など、公民権を剥奪されるというBC州の日系社会全体をひっくり返した受難劇がなかったことだ。つまり、一九〇五年に同地に入植し、定住していた日系人たちにかぎって言えば、その被害をこうむった人が極めて少ないという事実である。

 著者の村井忠政氏(名古屋市立大学教授)は、一九八四年にレスブリッジ大学の客員教授としてカナダに滞在した折り、二世マツヨ・モリヤマさんと知りあった。彼女は個人的体験を中心とする口述記録を通して、戦前の南アルバータ日系社会の断面を切り開いて見せてくれた。
「巻末資料」として併設された著者自身による論考「第二次大戦前の南アルバータ日系人社会 -- その生成と発展の軌跡--」では、アルバータの日系コミュニティーの歴史を「生成期」(一九〇五〜一九一四年)、「発展期」(一九一五〜一九四一年)、「戦中期」(一九四二〜一九四八年)、「戦後期」(一九四九〜現在)までに分け、社会学的な視点から通史としてまとめている。
 アメリカ上院議員となった言語学者のサミュエル・ハヤカワ(カルフォルニア州立大学の学長だった時に、警官を大学構内に導入して学生を強制排除した強行派としても知られている)は、一九三六年に日系社会に投票権をもたらすための陳情団のリーダーとして、オタワに出向いた時に初めて日系史に登場するが、その彼の父・早川一朗は「日加用達会社」を経営しており、日本からの第一波の入植者はその会社を通じて、一九〇九年に砂糖大根農場の労働者として南アルバータに送られて来た。

 マツヨさんは、一九一四年に同州レイモンドで福島県出身の高橋マツサブロウとマン(旧姓シマダ)がもうけた九人の子供の第一子として生まれた。貧しい小作の家庭の長女として生まれた悲哀を体験している。読んでいて痛苦な思いにかられるのは、父の残した遺言で、借金の形に身売りされることが決まっていたと語るところだ。「当時の社会慣習としては珍しくもなかった」と自ら述べているが、後見人だったはずの人たちも、それが遺児たちにとって「最善の方法」であるとして、彼女にそれを強要したらしいことだ。
 一九一〇年代、アルバータでの日系人口は数百人足らずだった。だが、レイモンドでは既に日系人協会が発足している。一九二九年には、レイモンド仏教会(浄土真宗)も発足している。その小さな日系コミュニティーの中で、クリスチャン(カソリック)と仏教信者の不和も既にあったという。
 一九二七年、母は九人目を出産するが、産後の肥立ちが悪く亡くなった。マツヨさんは十四歳で勉学をあきらめ住み込みで家事賄いの仕事にでた。三年後、今度は父が虫垂炎でぽっくり逝ってしまった。この時からマツヨさんの波乱の人生が始まった。
 下のきょうだいたちは日本人会によって引き取り先の世話がされ、四人が日本へ養子にだされた。加えて、マツヨさんは、あろうことか父がすでに生前、「五十円」で知り合いに身売りする約束をしていたのだった(日系人は「ドル」の意をしばしば「円」で代用する)。父の死の数週間のち、その知り合いの家に出向くと寝室に閉じ込められた。その家の奥さんが食事を運んで来て再びドアに鍵がおろされた。そこへ家の主が袖をたくしあげニヤニヤしながら入って来たのだ。彼女は腕にかみついたり、便所へ行きたいと嘘をついたりして、結局、用を足しに外の厠に行った際に、家に逃げ帰ったという。
家にもどると家財道具もなくガランとした空き家と化していた。カーテンだけが部屋の仕切りにかかっていた。「悲しくて、悲しくて」、そのカーテンで涙を拭いた。きょうだいが帰って来ると怪訝な顔で彼女を見たという。安物のカーテンの色模様が落ちて顔じゅうに付いていたのだ。
 両親を失った兄弟姉妹の扱いに地元の日本人会も頭を痛めたようだ。結局、四人が日本に養子にだされた。父の「遺言」には、マツヨさんと下の弟の身元引き受け人としてある人が指定されていたが、役場でこれが偽の遺言であることをみやぶり救ってくれたのは、事情を知る近くの白人女性だった。
こう事実関係だけを羅列すると非情な父親だったようにとれる。だが、乳飲み子を含む九人の子供を残して妻に先立たれた後の父親の心労は、想像を絶するものがあっただろう。子供の面倒を見ながらでは農作業はできない、生活を支えるには働き手であり、母親であり、妻である人が必要だった。博徒と知りながら娘を嫁に行かせる約束も、日本に行き再婚相手を探すために金が必要なのだと諭されたという。その数週間後に父は急性虫垂炎で急死したのだった。父が身心とも疲労の極に達していたことは容易に察せられる。
 結局、それしかないというかたちでマツヨさんはある日系人に嫁ぎ、三人の子供を育て上げて、十五年後に三十二歳で離婚。その間、夫は窃盗や酒の密売などで逮捕、牢獄へ送られるなどを繰り返していたという。

 マツヨさんの第二の人生がそこから始まった。女手一つの子育てが始まった。長男は学業を諦め母と農場経営に専念することになった。知り合いから砂糖大根から切り落とした葉を、飼料として再利用する方法を教えられて牧牛経営も始めた。
 孫八人に囲まれるようになってから、農業試験場のテクニシャンとして仕事に就いた。その頃再婚したが、相手は妄想性分裂病を患っており、家庭内暴力を頻繁に起こし離婚。三度目の再婚相手は大学の特別コースでコンピュータの授業を取った時の教師だった。この男は女癖が悪く、他にも複数の女性との交際が発覚するに至って三度目の離婚に踏みきった。
 一方で、持っていた土地から石油が出ることがわかって、突然億万長者の夢が降ってわいた。だが、好事魔多しの例にもれず、娘夫婦との仲に亀裂が生じた。結局、十四年にわたる裁判の後、マツヨさんは全てを失って家を出ざるを得なくなった。
 両親の死で学業を半ばで諦め、結婚せざるをえなかったマツヨさんだが、シニアになってから向学心に燃え大学で勉強し始めた。同書の著者村井教授との出会いも、村井氏が一九八四年にエドモントン大学の客員教授で滞在している時のことだった。村井氏の「日本研究」のクラスで熱心に勉強していた七〇歳のマチュア・ステューデントがマツヨさんだった。その後、マツヨさんは北海道の穂別で英語を教える機会にもめぐまれた。
 村井氏の質問にマツヨさんは、極めてあっけらかんと冗舌に自分の過去を語っている。精一杯生きて来た者が持つ潔さがそこにある。

インタビューの終わりは、「私は書くことが道楽で、ハッピーです。だから、それさえしておれば、淋しくないですよね」と結ばれている。
 村井氏は、マツヨさんの中にある父に対する怨念や、身近な男たちに対する否定的なイメージが彼女を苦しめ、心的外傷となっていると指摘する。また、彼女の人類愛に満ちた温かさは、モルモン教徒としての信仰からきているものではないかと推察している。
 母を失い、父が急死し、きょうだいはばらばら、揚げ句の果てに妻ある男性に強姦されそうになった。父の遺言によって、当のその男が彼女の身元引き受け人となっていた。まことに苛酷な少女体験である。当時の日本人会がこれをあえて黙認したらしいことが不可解ではあるが、当時の女性の地位を象徴しているとも言える。また、もしかすると当時、一夫多妻を暗黙のうちに認めていたモルモン教の開拓地、レイモンドという土地柄が影響していたのかもしれない。

<編集後記>
 二世作家で詩人のジョイ・コガワは、日系人の「沈黙」を「石の声」と表現している。一世たちの沈黙の裏には「話しても分かってもらえるはずがない」という諦念がある。加えて全てを胸のうちにしまっておくことに対する美意識もはたらいているようだ。これまで十二年間、日系コミュニティー新聞の記者をして来て、実際にインタビューをして一世の実人生の歩みを追う記事を書いたのは十回に満たないかもしれない。それも何故か男性がほとんどだった。僕の知るかぎり、マツヨさんのように極めてフランクに自分の半生を語った日系女性は、一世の故・田頭はつえさん以来ではないかと思う。日系女性史を学ぶ上で貴重な一冊である。                     (田中裕介・記)

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