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「この本おもしろかったよ!」
1ヶ月に約1冊のペースで朔北社出版部の3人がお気に入りの本を紹介。本のジャンルは様々なので「本を買う時の参考にしてくれればいいな。」という、ひそかな野望がつまっているコーナー。

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生きて帰ってきた男 岩波新書


小熊英二/著

岩波書店


 父親の伝記を、息子である小熊英二が書いた本である。最も近い肉親の伝記を小熊英二がどのように書いたのかと思いつつ読み始めた。読後、本書の意図は「あとがき」に尽くされているし、その意図をほぼ実現していると納得した。「あとがき」に曰く「本書は1925年生まれのシベリア抑留体験者のインタビューをもとに構成されている。これまでの「戦争体験記」とは一線を画している。その一つは、戦争体験だけでなく、戦前および戦後の生活史を描いたことである。」また「学術的にいえば、本書はオーラルヒストリーであり、民衆史、社会史である。社会的にいえば、「戦争の記憶」を扱った本であると同時に社会構造変化への関心に応えようとしたものである。」そして、伝記の主人公が父親であるにもかかわらず、一旦は肉親ということを離れて、他人の伝記のごとく書き進めている。このようなことを可能にするために、小熊英二の資質・意図・能力が大きな力を発揮したことはもちろんだが、同時に聞き取り作業をもうひとりの歴史家と一緒に行ったことが効果的だったのであろうと推測する。庶民の普通の家庭で暮らしてきた者にとって、父親の人生をこのように克明に知ることは稀有なことではなかろうか。私の経験に照らしてみて羨望を禁じ得ない。その社会的位置づけまでも明確に出来たことは、学者である小熊英二にとっては大いに意味のあることだろうが、肉親の情が脇に置かれていることは事実で、小熊はあえてそのような行為をしたわけである。
 本書の読みどころは、小熊が解説するように生活史の部分だと思う。被伝者の生活に時間的に次々に起きる出来事が、そのときどきの社会状況と絡めて鮮やかに描かれている。庶民の淡々たる生涯を、同時代を生きた読者は懐旧の念と共感を持って読むにちがいない。また、その生活がどんな時代的制約のもとに営まれていたのかを理解しながら、興味深く読み進むであろう。今ではすっかり変わってしまった町中における庶民の日常生活が描かれている。例えば、昭和初期の中野、高円寺辺の生活ぶりを私は昭和二十〜三十年代の三軒茶屋での生活を思い出しつつ読んだ。本書で庶民の生活ということに注目することにより、明治時代の漱石が小説で活写した生活、あるいは昭和初期の丸山真男の生活の回顧、描写、あれらは高等遊民、中産階級の生活だったのだと再認識した。
 シベリアでの抑留生活と、晩年の、朝鮮人抑留者と一緒に起こすことになった戦後補償裁判など、戦争体験の思わざる展開も、被伝者の経験を直視して意志を貫く強さを表しているが、それだけでなく、本書で描かれた、個々の出来事に対する被伝者の誠実な対応は、これは必ずしも庶民一般に通じることではなくて、小熊英二の父親小熊謙二の生き方、価値観によるものであろう。気持よく読めるのはそのせいだし、だから小熊英二も本書を書いたのであろう。(文:宮)