アーカイブス
「王様の耳はロバの耳」(2006)

この頁では朔北社の社長を含む朔北人(さくほくじん)たちの怒ったり、笑ったり、悲しんだりを勝手ながらホームページを通じて週に1度(なるべく)掲載していきます。あまり深く考えず、私たちのおしゃべりを楽しんで下さい。最近飛び飛びですみません。

 
2006年12月24日
『早いなあ』

あっという間に年末だ。なぜかロバ耳もこの間更新してから1ヶ月の時がたっていた!うっかりするにもほどがあるというものだ。毎週繰り返すものまで1ヶ月も忘れてしまうなんて。来年こそはホームページをもっとまめに更新出来るようにしようと心に決めるのであった。出来るのか?(やぎ)

 
『男だけの第九』

ベートーヴェンの第九交響曲は九十年ほどまえに日本で初めて全曲が演奏された。鳴門市にあった板東俘虜収容所のドイツ人捕虜が演奏したのだが、その再現演奏会が17日「杜のホールはしもと」でおこなわれた。とうぜん男しかいなかったわけで、独唱者にソプラノ、アルトがあり、混声合唱がある第九がどのように演奏され、どんな響きがしたのか興味津々であり、再現演奏会でもこの点が興味の的である。再現演奏会は、収容所の情景を松江豊寿大佐に扮した俳優の永井寛孝さんが面白ろおかしく説明しておおいに聴衆を沸かせて心の準備が整ったところで、始まった。男声合唱と男4人の第4楽章は力強さが印象的な素晴らしい演奏であった。ソプラノパートの岡本知高は舞台を圧する存在感と、それにふさわしい声量と表現力で聴衆を魅了した。演奏が終わって、拍手に応えている彼の笑顔はとても印象的だった。「男声だけの第九もなかなかいいねえ」というのが、演奏会に同行した「第九初めて物語」の著者横田庄一郎さんと私の、期せずして一致した感想だった。(宮)

 
2006年11月21日
『ゴスペルを聞きに』

友人に誘われてゴスペルを聴きにいった。友人が働く会社の同僚も出演するライブだった。ゴスペルというと日本ではゴスペラーズが歌い、教会で黒人がうたったりするものというような知識しかなかったが、行ってみて思ったのはすごくパワーのあるものだということだ。もともとは心の底から神への賛美・讃歌として歌われるものらしい。出演者のだれもが、すごく楽しそうに輝いていたのが印象的だった。見ているとわたしまで嬉しくなり始終笑顔で鑑賞。最後はサンタクロースやトナカイなどに扮した出演者が並び、クリスマスさながらだ。少し早いけど、歌とパワーというクリスマスプレゼントをもらったような気分にさせてもらった。最後にはサンタクロースに扮した人が子どもを優先にしつつ袋からプレゼントを配っていて子どもも大喜びだ。気が付くとわたしの手の中にもミルキーが5粒わたされた。高価なプレゼントをもらうより嬉しかったなあ。(やぎ)

 
『石田さよ現代創作人形展』

11月12日から18日まで浪江町商工会館で開催された人形展の準備(飾り付け)と片付け(撤収)のために常磐線で浪江まで2度にわたって往復した。地元関係者のそれは親切な協力によって人形展は成功裏に終わった。新聞の折り込み広告などを見てくれて多くのひとが会場をおとずれてくれた。浪江の町は週末ということがどこまで関係するか判らないが、町にほとんど人影がない。しかし、もちろん人がいないわけではなくて、たとえば食べ物屋に入れば、食べ物屋があまり多くないせいもあるだろうが、なかはとても賑やかである。それから駐車場が目立つ。生活に自動車が欠かせないものになっていることを窺わせた。滅多に旅行しない私には常磐線沿線の景色は魅力的で、とりわけ海岸沿いに走るときに見える海には目をひきつけられた。冬の海だが海流がぶつかってでもいるのか、二層三層に色が変わっている海水の鮮やかなこと。昼間はそういうわけで本が読めない。夜になると景色は見えなくなっているので読むことに集中できる。週末に程良い気分転換が出来た。(宮)

 
2006年11月6日
『はずかしいこと』

久々に友人達と5人で連休中にランチを楽しんだ。そこでトイレットペーパーを買う話になって驚いた!なんとみんな毎日のようにトイレットペーパーを使って生きているのに、トイレットペーパーを買ってむき出しのあのパッケージを持ち歩くことにはじらいを感じるのだという。「え〜っ」わたしは驚いたのなんのって。そこにいた友人たちも私の感情のほうにびっくりしたらしい。だってなんとそこにいた私を含む5人のうちの4人が揃いも揃ってはずかしいものだと語る。その中の1人は最近やっとその粋を脱したと言う。年齢と共に解消される問題なのか?生まれてこの方トイレットペーパーを持ち歩くのに恥ずかしさを覚えたことが少しも無かった私。世の中のどのくらいの人がトイレットペーパーを持ち歩くのに恥じらいを感じるのか統計をとってみたらおもしろいなと思う。(やぎ)

 
『珈琲時光』

深夜放送で「珈琲時光」を放送するというので録画すべく準備した。翌日みてみたら、40分、放送時間がずれて尻切れ録画になっていた。夜のバレー試合のせいだった。途中までだがとにかく見始めたら、神保町のおなじみの景色、お店が出てくる。予想通りの映像、雰囲気で、途切れるまで、堪能した。小津安二郎生誕100年を記念して作られたというが、監督は台湾のホウ・シャオシェン、主演は一青窈という顔ぶれ。いつか、結末までみてみたい。(宮)

 
2006年10月27日
『住みやすい国とは』

近頃公務員(先生も含む)が問題を起こす事件のニュースが多く流れている。では公務とはいったい何か?働く人の意識によってはかなりの違いが出てくるように思う。一般に公務員イコール安定というイメージはないだろうか?先生などは労働時間があって無いようなものだし、けっして楽な仕事ではない。けれど、公務員ということの公の意味をしっかりと心にとめておかなければいけないような気がする。人間だし間違いだってするとは思うけれど悪いと思ったら潔く認められる人であれば公務を任せて安心だ。赤字続きの国家で退職金ががっぽりもらえたり、ボーナスが出る不思議を思う。民間だったらありえないことだ。予算が余ったら年度末になると予算消化に走る。予算が余ると翌年に予算を少なくされるからだと耳にしたことがあるが実情はよくわからない。節約したり、使わなかった予算をこつこつためて翌年、さらに3年後には大きな事業をするために使えないのだろうか。一年でできることなんて実はあまりないのではないのかもしれない。住みやすい国になるのはまだまだ遠く感じるがまずは自分が何を出来るかなあ。(やぎ)

 
『図書館と地方交付税』

少し前の日経新聞に学校図書館の蔵書充実のために文部科学省が数年がかりでまとまった予算を計上するという記事が出た。ところが予算は地方交付税だという。以前にも同じことがあり、全国の自治体で予算を図書費にまわすようにという住民の運動推進された。しかし住民の意図をくみ上げていったいどのくらいの図書購入が実現したのか?児童書出版にたずさわる小社にはまことに貧弱な結末がよく分かる。地方交付税は本来使途が限定されない財源でこれが地方交付税の地方交付税たる所以なのだ。だとすると予算がくまれても図書費に使われるかどうかまったくわからない。財政が逼迫している全国の自治体の身になれば、それぞれ予算の使い方に優先順位があり、自治体ごとに違った使われ方をするのは当然である。本当に学校図書館の蔵書充実を図る気持ちがあるのなら、予算は地方交付税ではなくて、使途を特定した予算でなければならない。しかし、文部科学省は学校図書館の蔵書充実にさも熱心な風を装い、数カ年計画になる事業を発表した。この記事を書いた記者はこれらの事情をほとんど考慮せず、文部科学省の発表をそのまま記事にした。文部科学省も日経の記者もいい加減な仕事をしているものだ。(宮)

 
2006年10月14日
『雑草との競争』

雑草の育つ早さはすごい。たとえば庭があるとして、キレイに雑草を抜き去ったとする。でも数日後にはすでに新しい芽が芽吹いている。我が家には庭がないので、最近それを実感することはほとんどないが、友人は庭付き貸家に住んでいて、とても手が回らないとぼやいていた。庭を美しく保つのは本当に大変で抜きつ抜かれつの競争。雑草の姿を見ながら朔北社も雑草のようにたくましく抜かれても次々芽を出せる存在になりたいと思うのだった。(やぎ)

 
『垂直金魚』

会議室のある部屋の片隅に金魚が生息している。長径120センチ、短径60センチ、高さ20センチほどの陶製の水盤の中に5,6匹が水草とともにいる。朝、部屋に入って水盤に近づくと、その金魚が文字通り体を垂直にして水面上に口を出し、水をぴちぴち跳ね上げて餌を待っている。口もきかず顔も知らないのに、体を垂直にしてまっているすがたを見るのが朝の楽しみのひとつになっている。しばらくしてまた水盤に近づいてみても、今度は我関せずとばかり知らん顔でおよいでいるから垂直になるのは、餌を待っているのだということは間違いない。(宮)

 
2006年10月4日
 
『去りゆく景色』

電車の先頭に乗って線路を進んでゆく景色というのは子どもの頃もすごく楽しかった記憶がある。たまに先頭車両に乗ったりすると、ついつい運転手の背後から先頭の正面窓から広がる景色や運転手の行動なんかを見いるとわくわくする。でも、実は私が本当に好きなのは遠ざかって行く線路と小さくなっていく景色、つまり最後尾から見える車掌さん側からの景色が好きなのだと最近気づいた。どちらかを選べと言われたら迷わず後者を選ぶだろう。電車が見せる景色は独特だ。同じ場所を同じように走る電車。線路の上でしか存在しないその乗り物が走るレール。その線路の上で毎日去っていく景色をながめながらなんともいえない満足感で満たされている私。こんなことを感じるのは私だけなのだろうか?(やぎ)

 
『モーツアルトは毒殺された?』

フランツ・カーの[モーツァルトとコンスタツェ](音楽の友社)を読んだら、モーツァルトは恋愛事件にからんで毒殺されたと書いてある。モーツァルトの葬儀のこと、お墓のことを考えあわせると、かなり納得出来る説だということがわかった。しかしながら、そのようなこみ入った状況のなかでも、彼は結構ほがらかに生きていたようだし、なにより、死ぬことをすこしも恐れていなかったらしい。私は、この本を手にしているいる間、夢中になって読んでいただけでなく、頭のなかは、モーツァルトの音楽がつぎつぎに鳴って、すこぶる賑やかでもあるし、いそがしくもあった。しかし、彼の死をめぐってたとえどんな事情があっても、彼の音楽は少しも変わらずに、ある。実は魔笛のアリアに彼の個人的事情が反映しているのだと説明されても・・・。(宮)

 
2006年09月15日
 
『人一生のうちに抜ける髪の本数』

いったい、髪の毛は一生の内に何本が生まれ死んでいくんだろうとふと考えた。我が家の掃除機とその絨毯とは相性が悪いらしく絨毯に落ちる髪の毛をなかなか吸い取ってくれない。そのためどんな方法で取るのかというとガムテープである。掃除機で吸い取っていたときには気づかないがガムテープで取ってみると一週間に相当量の髪の毛が抜けていることが分かる。我が家は2人家族だから、2人分ということになるのだが、本当に驚く量でびっくりだ。この分だと何か事件を起こす犯人はきっと何本かはかならず現場に髪の毛を落としてきているだろうと思う。髪の毛一本からその人が男か女かもわかれば、年齢さえあててしまうのだから凄いことだと思う。だから捜査員は犯人の色んな落とし物を現場で捜し出すのだろう。あちらに一本こちらに一本と自分の分身をまきちらす。きっと一生のうちにそれらの髪の毛をかき集めたらカツラがいくつもできるかもなあと思うのだった。何本で何個のカツラができるのかやってみたいものだ。(やぎ)

 
『老人の悲観主義もあるが…』

戦後も61年たつと、世の中のシステムは硬直化し至る所にその歪みが出てくる。折悪しく世代はすっかり交代し、歴史の教訓などあらかた忘れ果てて威勢のいいことを考え出し、やりたがる。このような変化を目の当たりにしてむかしを知っている老人はおおきに心配し、若者の大声にかき消されそうになりながらも、なお静かな声でかすかに発言している。いまの時代を粗っぽくいえば、このようにいえる。ところで、1ヶ月ほど前、日経新聞で色川大吉のエッセイをよんだら、彼は柳田国男にふれて、次のように書いていた。「柳田国男さんは敗戦後、こんなことを書いている。日本人の本質は事大主義にあるようだ。・・・どうやったら時代の大勢に対してもノーといえるような国民にすることができるのか、それが戦後の自分の使命である、と。そのためには、一人ひとりが思考力、判断力をつけることが先決と柳田さんは考え、国語教育に情熱を注いだ。」そして色川さんは近頃の日本人のさまざまな心配になる行動と意識にふれながらも末尾でこう言うのだ。「でも私は悲観していない。戦前、良くものが見えていた人は二十万人もいなかったろう。今は、二千万人もの国民が、主体的に考え、事態をよく見ている。この百倍に増えた人々こそが、戦後の財産だ。」戦前の昭和時代と現在の類似は多くの人が指摘する。わたしも同じ感想を持つが、にもかかわらず、戦前と戦後の今とでは確かに変わったところがある。それが色川さんの指摘した、自ら見、考える人が増えたことだ、とわたしは思う。二十万人から二千万人にという数字が現実をどのくらい正確に反映しているかは分からないが・・・。(宮)

 
2006年09月06日
 
『人のこころがわかったら』

自分のこころの動きにも驚くこともよくあるが、人の心ほど難しいものはないと思う。人のこころを時にはすごくわかる時もあるのだけれど私にとっては殆どわからないことのほうが多いのが常だ。だけどその一個一個に心がゆれる。嬉しかったり、悲しかったり、苛立ったり…人のきもちがわかったら楽だろうなと思う反面、全てが見えたり聞こえたりしていたら、ものすごく大変だろうなと思う。体の中と同じで複雑で難解。時には単純で明快。何より自分自身がね。(やぎ)

 
『パールハーバー』

パールハーバーを訳せば真珠港。これを真珠湾と訳したのは(外務省?)間違いだったらしい。しかし一旦定着した言葉わおいそれとは変えられぬ。太平洋戦争の口火を切った真珠湾攻撃をいまさら真珠港攻撃と直されてもしっくりきません。が、一方で人名は原地読み尊重の考え方が強くなって、言い方が変わってきている。金大中は以前は「きんだいちゅう」だったがいまは「きむでじゅん」。けれども「きむでじゅんじけん」とはいわず「きんだいちゅうじけん」といっている。言葉は初めて聞いた音が頭に残っていくのは事実だが、また、変えられてしまえばそれに慣れる。いい加減なところもある。中国と支那のように、政治がからんで使い分けされ、また論争の的になる甚だやっかいな言葉もある。真珠港も慣れれば何でもなくなるかもしれない。それにしてもパールハーバーのようなやさしい言葉をどうして間違えたのか?!(宮)

 
2006年08月25日
 
『そうめん』

お盆に夫の実家に帰省した。ここ最近お盆には、うちで米を買ってくれている(夫の実家は米屋)「サスパ」という健康ランドのようなところが経営している洞窟ソーメンを食べにいくのが習わしになっている。そうめんというとこどもの頃にはよくお中元で送られてくる品の一つで夏休みの手抜きのお昼はそうめんだった覚えがある。だからというわけではないが、外食でなぜそうめん?!という気持ちが少なからず甥っ子たちの中にあるようだ。大人になってから昼間家にいないことが多いこともあるのだが、そうめんを口にする機会がめっきり減ってしまった。たまに食するそうめんは夏の代名詞のようでうまいのだが。毎日はちょっと…という子ども達の気持ちもわかる気がする。今年も毎年にもれず義父(おじいちゃん)は割り引き券も購入したし、みんなで食べに行くぞ!と大張り切り。孫は「え〜そうめん?」とがっかり。本当はめったに連れていってもらえない『焼き肉』が本命らしい。おじいちゃんがっかり…けれど孫かわいさにまけその夜は「焼き肉」翌日夕方そうめん」となり無事みんなの満足の食事会となった。もちろん「焼き肉屋」も米の納品先であるのはいうまでもない。そうして我が家の米穀店はたまに自分の納品した米がおいしく食されているかちゃんとチェックしているのである。義父えらい!(やぎ)

 
『孝徳秋水』

ドナルド・キーンの「明治天皇」という上下2巻の大冊を車中に持ち込んで奮闘中。明治天皇の個人的な好き嫌いや、戦争、反乱、暗殺などの大きな出来事に対する反応の記述はとても興味深い。政治的事件で天皇の判断がことを決めたこともある。天皇をはなれて面白いのは、本文中に取り上げられている幾人かの評伝だ。生きていたときにはほとんど何も判っていなかった人物像や事績が、多様な研究書を駆使して簡潔に表現されている。本書のお終い近くを読んでいて出会った孝徳秋水は、存命中からかなりの有名人だったと思われるが、改めて学生時代の読書をおもいださせてくれた一人である。貧乏で病身であるにもかかわらず、その行動力には目を見張らされる。中国に渡ろうとして果たさなかったが、獄中では読書にいそしみ、渡米する。それから衆目の認める文章家の才。キーンさんは孝徳を淡々とした筆致ではあるが、温かく書いている。(宮)

 
2006年08月10日
 
『生き物は強い』

わたしは植物を育てれば枯らしてしまうし、生き物を飼えば揃って短命。わたしは何かを育てることに向いていないのではないだろうかと思い、最近はめっきり動植物を身近におかなくなっていた。数ヶ月前私の両親と同居していた数週間があった。母は、部屋の模様替えなど、我が家で美しくない場所を飾ってなごませようとテーブルクロスを買ってきてテーブルを飾り、ポトスという植物を買ってきて置いたりしていた。なんでもポトスはあまり世話をしなくてよい上に、丈夫らしい。でも、わたしは密かにかわいそうに…我が家にやってきて…と思っていた。両親は千葉に戻り、さて私が植物のめんどうをみることになった。とはいえたった1週間に1回の水やりである。ところがある日2週間も水をやるのを忘れてしまった。思い出してポトスちゃんをみると、すっかりぐったりしている。心から「ごめんね」と言いつつ、たっぷりのお水をやった。すると数分後にはなんと茎や葉もしゃっきりしていつもの元気なポトスちゃんに戻っているではないか!?同じような話ではないが、知人がある日飼っていた魚が小さな水槽からいきおいよく飛び出てしまった。(ぐったり死んでいるようだったというから1時間以上も陸にあがっていたのかも)死んでるけどと思いながらもポトリと水槽に戻したらなんと泳ぎだしたという。知人の父子は戻してびっくり。生き返ってびっくりだったそうだ。生き物は強いなあと思った。思わず励まされる姿だ。(やぎ)

 
『民営化』

プールの吸水口に吸い込まれて子供が死亡した事件が連日、テレビ、新聞を賑わせている。それから、すこし前のシンドラー社のエレベーターの事故。プールの管理を請け負った会社やその下請け会社の責任、あるいはエレベー民営化と民間委託
メーカーの責任はもちろん大きいが、見逃してはならない問題はべつのところにある。自治体の財政難から発する経費節減の大合唱、その方法としての民営化や業務の民間委託、具体的には随意契約がめのかたきにされ入札に切り替えられていく。仕事によってはそれが正しい転換である場合があるだろう。しかし、まさに仕事によるのであって、たとえばプール管理請負の仕事が入札で委託されるときに、何人の要員によりどんな方法で管理するのかをきちんと比較して落札しているのかどうか。私は、実情は、単純に金額の大小で決められていると思う。自社の仕事で入札資料作成に幾度も協力したことがあるが、仕事のやりかたがきちっと考慮されているとは到底考えられない結果をたびたび経験しているからである。われわれの仕事は幸いなことに、人命に関わることはないが、仕事自体が要請する手順を省略した結果は経費の無駄使いとしかいいようのないことは自明とかんがえる。経費節減のために導入された入札業者がどんな仕事をし、どれ位儲かっているのか、深くつっこんだ調査分析をみてみたい。まさに仕事によることなのだが、自治体で5人の人員が必要だった仕事が民間委託では3人で済むということをあまり単純に信じない方がいいとおもう。予算節減がバックにあれば、5人の仕事を3人でするときは長時間働かせるか、仕事の密度を高くするしかないし、5人でするほかないときには、安い賃金で働かせなければ辻褄が会わない。人命が関わる仕事では経費をケチらずすべきだ。つきつめれば、仕事の見極め、区分が大切で、意味ある仕事をするためには手間暇かかるが、個々のしごとに立ち入って分析することこそなすべき第一の作業である。
(宮)

 
2006年07月19日
 
『自己流乾燥機』

我が家は半地下に住んでいる。もちろんベランダもないので、洗濯物が外に干せない生活をここ数年送っている。お日様の元に干せないから乾きが遅い。せっかく洗ってもなかなか乾かないために生乾きの臭いものに仕上がってしまうのは悲しい。最近は部屋干し用の洗剤もあり、昔みたいにすごく臭いことにならず洗い直しなどしなくて済むようになってきたが、日々よい方法がないかと考えている。最近はもっぱら扇風機による乾燥に頼っている。方法は簡単!洗濯物を干す。この時洗濯物はななるべく間隔をあけておく、風が吹き抜けることが重要だ。干す場所もしかり!部屋の隅なんかに干してはいけない。なぜなら風をあてているのに風が抜けないからだ。扇風機をすこし上に向け洗濯物に当たりやすくする。タイマーを3時間いっぱいに入れる。ではいってきます!この方法で朝干した洗濯物たちは夜になると殆ど乾いている。我が家の自己流簡単乾燥機はどこよりも場所を広く要するのだ。けっこう楽しいが、太陽の匂いに魅力があるのも事実である。いつかまたベランダに洗濯物を干せるところに引っ越そう。そう心に決めるのであった。いつかわからないけど…(やぎ)

 
『世界ふれあい街あるき』

たぶん4月から始まったと思う、ときどき見るNHKの番組。文字通り、街を歩いているだけだが、ナレーションが少しもうるさくないので、ついつい最後まで見てしまう。毎回ナレーターをかえているが、おなじような雰囲気だから、ナレーターの問題ではなくて、番組の作り方のようだ。ナレーションといえば、この間までやっていたウィンブルドンのテニス中継もそうで、アナウンサーも解説者も話しを最小限に絞っていて、おかげで、試合を堪能できた。(宮)

 
2006年07月13日
 
『雨に苦しむ』

日本各地で雨による被害がニュースになったが、所変われば、今の東京の雨の少なさ…。バランスがとれなくて思うままにならないお天気や天災。自然は本当に驚異そのものだ。その次に怖いのはなんだろう。人間か?自分か?このところ東京では雨らしい雨に遭遇していない。毎日毎日暑いのに。雨の一つもほしいものである。最近ニュースなどでもおなじみのはやりの画像処理?画面処理よろしく、こちらへ寄せたければ寄せたり、大きくも小さくもできるお天気システムがあればお天気に翻弄されることもなくなるだろうが、人間の力でなにもかも支配できるようなことになったら、やはり一番こわいのは人間だといわなくてはならなくなるんだろうなあと思う。その操作する人の気分一つで天気を左右するのだから。お天気は嬉しいものだが、いつでも同じ国内で雨の量を調節できてしまったら自然の驚異もなにも感じなくなってしまうんだろうなあ(やぎ)

 
教育費』

小社が参加している学校図書館向け販売グループの成績が苦戦している。まず図書館予算が年々削られているから売上が減少するのは理解できる。注文はセット物がぐんと減って、単品主体になってきた。ささやかな額でしかない図書館予算を削る政府、自治体の教育に対する精神の貧しさを思わざるを得ない。子供がかかわる凶悪事件もおおい。また、不景気や公務員の不祥事もあってであろう教師の給与減額がニュースになった。しかし、教師に十分給与を払い教育の質をたかめることこそ必要ではないのか。図書費や教師給与にかぎらず、まず教育にたっぷりお金をかけなければ、事態の改善は出来ないとおもう。(宮)

 
2006年07月05日
 
『条件反射』

習慣というものは恐ろしい。パブロフの犬ではないが、いつもその席に決まった誰かが座っているとすると、絶対座っているのはその人だと思いこんでしまう。そして違う人であるということが視覚として入ってきて別人だと認識をしたときに必要以上に驚いてしまうということはないだろうか?実は私にはそんな経験がよくある。認識能力を超えたところに人はいると思いながら固定観念にとらわれている自分。この人はこんな人と思うとその固定観念から離れられないことがある。だけど、そうじゃない部分もあって毎日人は変化しているのだから、自分も常に頭を柔らかくしておかなきゃなあと思う。(やぎ)

 
『曾野綾子さん』

曾野さんがは、産経新聞に書いていたサッカーのワールドカップ報道にについての文章にいたく同感し、このような意見のひとが自由にものの言える、今日の日本にホッとするところがある。曾野さんの文章の一部を引用する。「サッカー好きの人が熱中するのはいいのである。しかし世の中にはそうでない人もいる、という認識が欠落していたマスコミは始末に悪い。こういう浮ついた熱狂を見るのは今度が始めてではない。戦争中に見なれた反応と言葉遣いとそっくりであった。」興味のある人はぜひ全文を読んでみてください。6月26日の新聞です。(宮)

『貴重な時間』

最近、本を読むにも時間がかかる。一冊を読むのに一ヶ月。途中で飽きてしまったりして、最後まで読めないことも多い。本を読むことが、全くストレス発散にならない日々の中で、貸してもらった一冊の文庫本がすごく興味深くおもしろく、2日間くらいで読んでしまった。その中で参考文献に使われていた冊子も手に入れて、それも30分くらいで読み終わった。
久しぶりにいろんなことを忘れ本に没頭できた、私にとってもはとても貴重な2日間30分だった。
(みなりん)

 
2006年06月30日
 
『戦争つれていかれる少年たち』

今も世界のどこかでは戦争が行われている。戦争の一番の被害者は一体誰なんだろうか?先日「イノセント・ボイス 〜12歳の戦場〜」という映画を見た。この映画の主人公は11歳の少年だ。誰もがその少年の名前を知っているような本来はのどかな小さな町。12歳になる日を恐れる少年達。たった12歳である少年たちが戦争に徴兵されていくのだ。もちろん国の決めたことだが、もしかして生きて帰れないかもしれない戦いに好き好んで行く子どもがいるだろうか?もちろん自分のかわいい子どもが徴兵されて喜ぶ親もこの映画の中にはいない。まだ充分に幼さの残る子ども達。政府軍の目を盗み見つからない場所へ隠れる。その場所は…なんと家の屋根の上!下からみえないように屋根に寝ころび息を潜める。その上に広がる空がなんとも自由の象徴のようだ。日本でも13歳で戦地に赴いた人の話なども本になっているが、私たちは世界の痛ましい状況をテレビで漠然と眺めてはいるが、それでも食事の手を止めないでいられるのは、それが目前の出来事ではないからなのだろうと思う。この映画はある青年の実体験を元にして作られた映画だという。それだけにリアルさも感じる。現代の核戦争という視点からではなく戦争・争いという部分で一番人間らしい1つの家族を通じて伝わってくるものがあった。戦争の中にあっても人はいつも暗い顔をしているわけではない。戦火の中にあっても人間が人間らしさを忘れずにいる大切さを思った。私はそんなときにも笑いを忘れずにいたいなあ。学校などで子ども達がこういう映画を見る機会があったらいいなあと思う。(やぎ)

 
『女性二題』

最初の話:スーパーマーケットで精算しようとレジに並んだら、よく見かける店員と新人らしき若い店員が共同でチェックし品物を籠にいれてくれる。よく見かけるほうの女性もさほどの古株ではない。その人が、いつのまにかベテランになって、新人に品物のちょっとした捌きかたを要領よくしかも親切に教えているのをみて気持ちいい風景だった。
もう一つの話:金曜日の帰りの京王線の車中でのこと。若い女性が出入り口の手摺りに背をあずけて、目をつむり、かなりの頻度で右前方に大きく倒れてくる。しかし右手は吊革を垂らしている鉄棒を掴んでいて床に倒れることはないのだが、かなり激しい動きで、結構込んでいる車中で迷惑だし無防備きわまりない。ちょうどその場所にはべつの女性客が立っていて、適当によけていたが、この女性を含め回りの乗客もそれとなく見守っているふうだったが、当の本人は酔っていたのか、疲れなのか知らないが、まわりの人々への迷惑など全くしらぬげに、調布に着いたら、ふっと目を覚まして降りていった。
(宮)

2006年06月21日
 
『クラッシュ&ビルド』

わが家の近所は数年前から立て替えラッシュが続いている。今も3件ほどがすこし前から更地になり、その後トンカントンカン(実はこの音はウソ今は機械でなんでもやってしまうらしい。音はシュパッゴゴゴゴゴゴのほうが正しい)毎日のように建築工事がおこなわれている。どの家もどう見てもまだまだ住める家だったのに一日二日で影も形も無くなってしまうのがなんだか悲しい。家はだんだん壊れてくるものだから手を入れ続ける必要があるのは確かだし、実は建ててからもお金がかかるというけれど、施工主や大工さんにはできるだけ長く快適に住める家を建ててほしい。そしてお金のかかった大きな買い物を簡単に壊してしまわないことを願う。いや、しかしみんなお金持ちなんだなあと思う今日この頃。(やぎ)

 
『ダブルのスーツ』

モーツアルト最後のオペラ「皇帝ティテゥスの慈悲」を深夜のBSでみた。舞台の視覚効果もあり、音楽を味わうことができたのだか、ひとつだけ大きな違和感を覚えた。皇帝は現代風の軍服を着ており、男の登場人物はダブルのスーツ姿である。ローマ帝国のはなしなのにこの衣装は、いかにもあわない。いまどき、オペラでは舞台を現代に移したり、時代不詳にすること、当たり前のように行われている。流行っているといってよい。しかし、私はこの種の演出にであうたび、またかとうんざりする。例えば、赤穂浪士の討ち入りの舞台で、四十七士がスーツを着ていることなどありえないことだとおもう。(宮)

2006年06月15日
 
『気分転換』

世の中の人はいつもどんな方法で気分転換をするのだろうか?最近の定番はマンガを読むことと、名画座で2本立ての映画を見ること、CD屋さんで視聴コーナーにて今まできいたことのないジャンルの知らない人のCDを聴くことだ特に気に入ったものに当たったときはものすごく嬉しい!音楽は国を越えて、言葉がわからなくてもだれの心にも届きやすくていいなあと思う。(やぎ)

 
『変貌』

パソコンの変貌のはやいこと。パソコン通信はだいぶまえにきえたし、インターネットも次々変化する。ホームページは無数にあるが、いまはブログなるものがはやっている。本に関してインターネットを見るが、最近は、まずネット書店やら、大手書店のページが延々と出てくる。ページのあたまにくるものが書店営業の観点から、選ばれているように思える。時々みるぐらいでは変化のあとがわからず、まごつきます。(宮)

2006年06月06日
 
『広告のない電車』

今朝、電車に乗った。30分遅い電車に乗ったため車内は混んでなく快適。家に持ち帰ったチラシの校正が手つかずのままだったことを思いだし、電車の中で校正をちょろちょろ。神保町一歩手前の市ヶ谷でふと顔を上げてあたりを見回してびっくり!なんとその車両には一枚も広告がなかったのだった。最近電車の広告の数も減っているなと思っていたけどゼロとは…。たまたまなんだろうけど、広告が一枚もない車内は色がなくてなんだかさみしいものだなと思ったのだった。暇つぶしもできないしなあ。(やぎ)

 
『治安』

「治安はほんとうに悪化しているのか」というタイトルをもつ興味津々の本をもらった。近頃のニュースが治安悪化を繰り返しつたえるが、この本は、その実態を原点に立ち戻って考えてみようということを言う。犯罪統計をどのように読むのかが重要であり、そもそも犯罪統計がどのように作られているのかを知らなければ治安の実態は分からないということである。情報の洪水に流されず、問題を的確に理解するために、根本にたちかえって考えることがこれからますます重要になる。(宮)

2006年05月24日
『新大阪』

仕事でどうしても大阪にいかなければならなくなった。新幹線で新大阪駅まで乗ったのだが、いまは「のぞみ」がふえて、東京・大阪間は随分楽に往き来できる。新幹線開業当時の新大阪駅を知っているが、実に閑散とした風景だったことを覚えている。40年も経てば、街は建物が沢山建てられただけでなく、その建物が古びてきて、何となく落ち着いた空気を作り出すものだ。新大阪駅前は、本格的に整備されないままで、関西の玄関駅としては、いささか淋しい。便利かもしれないが、駅ビルにカプセルホテルがあるのもどうか。
新大阪を一歩も出ない出張だったので、新大阪だけを観察し、新大阪のことだけを考える一日だった。
(宮)

2006年05月10日
 
『歌の創作?』

夫が歌を唄っていた。「あめ(あめ)がふれば(がふれば)みんな(みんな)たぬき(たぬき)きつね(きつね)ねこ(ねこ)やっほ(やっほ)…」微妙にちがう歌になっている。曲も途中で変わったり戻ったり。なぜあめがふるとみんなたぬきに????そんなわけないだろうが!!!とツッコミどころ満載の歌。自分の歌で楽しい気分の夫はご機嫌。私もついつい楽しい気分に。本当の歌はたしか「あめ がふれば おがわ ができ かぜが ふけば やまが できる ヤッホ ヤホホホ みんなで よべ…」という山賊のうただった気がする。(やぎ)

 
『食いしん坊』

先日夜遅くなって、仕方なく終夜営業の某ファミリーレストランに入った。注文したものの中にソバがあり、チュウブから出したとおぼしき気持ち悪そうなネチョネチョのわさびが付いている。ソバを食べるのにわさび抜きの羽目になったが、そんなこと予め分かっているが、深夜営業しているもう一軒の食べ物屋は、味はずっとましにも拘わらず、店員の態度がいやで敬遠して、まずくても、気楽に過ごせる店に入っているというわけだ。つまり味より心持ちを優先しているわけで、私は食いしん坊ではないということ。(宮)

 
2006年04月25日
 
『身近な人の死』

人が死ぬというのはなんだか寂しい。親戚や知り合いの死となるとぽっかりと心に穴があいたような気持ちになる。最近夫の従兄が亡くなり、人は死んだらどこへ行くのだろうか今更のように暇さえあれば考えている。幸せだったと思って亡くなったのならいいなとかそんなことも考えている。そうこうしているうちに我が家の大家さんである(90歳を超えているはず)おばあちゃんのお葬式が週末にあった。最近では珍しい自宅でのお葬式。入居するときに面接した記憶が蘇ってきて、ちょっと泣きそうになった。人はみんないつか死ぬのだなと思ったら少し寂しさが薄らいだ。縁のある人はまたいつかどこかで違う形でも出会う気がする。久々しんみりしてしまいました。(やぎ)

 
『窓ガラスを邪魔するな!』

春になって、通勤電車の窓から外をみることが俄然多くなった。なにしろ多摩川の河原に限らず、外界は鮮やかな緑にかがやいている。通勤時間だから、ほとんど座席にすわることは出来ないので、ドア付近にたつ。ところが折角ガラスが入っているのに、丁度目線の位置に広告が貼ってある。広告を貼るなら、いや貼りたいなら、ガラスなどやめてしまえと言いたい。(宮)

 
2006年04月19日
 
『電車のなかで思うこと』

朝の電車、みんな何をしているのかと、きょろきょろ観察することがよくある。(←挙動不審)携帯をいじる人、朝刊をよむ人、爆睡している人、いろいろだ。夜の電車でも、みんなが何をしているのかと、きょろきょろ。携帯をいじる人、夕刊を読む人、酔っぱらい。
それでも、やっぱり多いのが、本を読んでいる人だ。最近本を読まない人が多くなったというが、そんなことは全然ないと、実感する。いろんな書店のいろんなブックカバーをかけた本が、電車の中のあちこちで広げられている。本を読む人はたくさんいるし、リアル書店で本を買う人はいっぱいいるんだと、嬉しくなる。
(みなりん)

 
2006年04月12日
 
『親子なのに…』

土曜日に両親が海外から帰国した。都心から少々離れた場所に家を構えているので、帰国後の諸々の手続きがなかなか終わらず、一週間ほど我が家に泊まることになり昨日から一緒にくらしている。
父そこで一言。「そういえば決まり事を決めていなかったから決めよう」昔から決まり事の好きな父である。
私「…?」父「一人でお世話になるときは、朝食付きで2500円でどうだろう?二人で泊まるときは悪いが(父と母のこと)割引で一人2000円にしてもらって…」私「…?」長期滞在ともなれば食費などの問題も出てくるだろうが、一週間もしくは一日単位でそれは…もしかして宿屋と間違えてはいないだろうか?一泊朝食付きにより、私の早起きは約束されたのだった…前から他人行儀だとは思っていたが、我が父親ながら面白すぎる。これからもいろんな話題を提供してくれそうだ。しっかと長生きしてくれたまえ。
(やぎ)

 
『風邪の循環』

風の循環ならいいのだが邪がついて風邪になると循環は困りものだ。朔北社出版部ではいま邪つきの風が猛威を奮っている。喉に来、胃腸に来、食欲がなくなり、発熱する。休養し、体力をつけ、撃退するしかないのだが、それが出来ない。
今年は桜が散ってしまっても、寒さがぶり返し、体調をくずす。せいぜい早くかえって早寝しましょう。
(宮)

 
2006年04月04日
 
『春だから?』

最近電車の中で変な人によく会う。たとえば、歌いながら指揮をする人や、第一関節まで指を鼻の穴につっこみ鼻をほじる人、この間なんて見た目かなりの好青年がやはりその状態で鼻をほじっているのを発見!かなりのショックを受けた。最近に至っては、一人でシートに座り足をパクパクと大股開きに開いたり閉じたりするおじさんを見た。そのときはさすがに思わず笑いそうになった。それから電車に乗っている間中、髪をいつまでもいじりまわし、ヘアースタイルを気にする若者も。だけど降りていく後ろ姿は姿勢が悪くて立ち姿は若者というよりもよぼよぼの爺さんそのものだった。若者よ髪型よりもまずは姿勢じゃ…と思ったのだった。(やぎ)

 
『早起き』

最近、早く起きるのが、苦痛ではありません。しかも、無理矢理起きるわけではなく、パッと目が覚める。夜、早く寝ているわけでもないし、睡眠時間が短くても、結構平気なのです。体がこういうリズムになっている時は、それに合わせて生活すると、とっても楽です。なので、最近は朝型生活・・・・う〜ん、健全。(みなりん)

 
『凍れるさくらと散らない桜』

首都大学東京の門前の桜が楽しませてくれる。3月末、真冬のような寒さが戻った夜、7分咲きの桜は夜目には満開に映り、冷たい空気の中でかたく凍りついていた。雪のふるなかで咲いている桜もあるわけだから、真冬凍った桜もあるわけだ。
そして今週になると本物の春がやってきた。大学門前の桜はいよいよ満開だが今朝もまだ花びらは散っていない。散り始めなくては満開ではないと聞いたことがあるが、咲きぶりをよくみると蕾はほとんど残っていなくて、満開なのだ。いつ散り始めるのかと思うまもなく、散り始めるであろうが...。
(宮)

2006年03月28日
 
『ただの山?』

九州から義父母と甥っ子3人の総勢5人が上京し、横浜に住む義弟も含み我が家に6人が泊りにきた。さすがに家はギュウギュウだ。古希のお祝い(すでにもう数年過ぎている)と真ん中の甥っ子の大学入学祝いを兼ねての大移動。富士山への「日本一のツアー」と銘打った紙まで作成してすっかりツーリスト気分の義弟。富士山へは義母も末の甥も初めて。レンタカーで富士に向かう。5合目到着。想像以上の雪の多さにびっくり!路面も凍っているところさえあった。ここまで寒いとは思わず薄着で震えながら日本一の山に感動し山を降りて見晴らし台へ。
父一言「やっぱり富士山には雪がかからんばねえ。富士山も雪がなければただの山ばい」みんな「えっ?!」のあと大爆笑の渦が起こった。たしかに上だけ雪の積もった富士山は美しい。雪がなければただの山。また一つ父の語録がここに新しく誕生したのだった。
(やぎ)

 
『もう1/4過ぎました』

気が付けば、桜が咲いている。もう春だ。高遠に花見に行ったのも、靖国神社の屋台を巡ったのは、もう一年も前のことなのか・・・・。
ついこの間、2006年になったばかりだと思ってたのに、もう1/4過ぎてしまったのですね。時間が経つのは、早い。いろいろ、頑張らなくちゃ。
(みなりん)

 
『遠目の花見』

 ここ2、3日にわかに春らしくなり、桜の開花が告げられ、花見の季節になった。
 神保町の近辺は花見の名所が沢山あるが、相変らず、あわただしい毎日を送らざるをえず、なかなか花見どころではない。九段下の四ッ辻から靖国神社の方向をながめて、ぼうっと見える桜の木を遠くから確認している。近づいて見るのはいつか。花の時期はたちまち終わってしまうから、うかつではいられません。
(宮)

 
2006年03月22日
 
『居眠り』

 事情があっていつもより1時間早く出勤することになった。京王線は、時間が早い分混んでいて、座席に座ることなどできなかった。吊り革につかまり片手で新聞を読んでいたら、いびきが聞こえる。それも2人。
 吊り革の前の七人がけの座席を見ると、全員男で、二十歳代から五十歳代までいろいろな人が、全員居眠りをしている。「全員」はかなり珍しいのではないかと思う。そのうちの2人がいびきをかいている。
 この人たちも、新宿や市ヶ谷につくと、突然ガバッと目を覚まして、電車を降りていくから感心するしかない。
(宮)

 
2006年03月14日
 
『小さいのは顔か?頭か?』

自分では顔や頭が小さいと思ったこともなかったが、たまに人から「頭小さいね」と言われることがある。初めは小顔といわれて誉められているのだと密かに喜んでいたが、実は顔が小さいんじゃなくて「頭が小さい」と言われているのだった。頭だけが小さくて顔は大きいのか?まあそれはおいておいて、頭小さい=脳みそ少しみたいだねと家で話したらそれ以来、顔を見るごとに夫「頭ちっちゃいね〜」とからかわれるようになってしまった。そういえば、中学生の頃友人からもらった誕生日カードに「その○○ちゃんのアイロンをかけたような脳みそに一本ずつシワをつけていってね」というメッセージが添えられていたことがあった。もちろん冗談でだが、なんだか私のイメージって一環しているのかも…あれから十数年。私のちっちゃい頭には沢山のシワが刻まれたのだろうか…(やぎ)

 
2006年03月07日
 
『知らぬ間の春一番』

 きのう(3月6日)、春一番が吹いたそうだ。この所大分春めいていたが、毎日あくせく働いていて、当日の実感がないままニュースをきいて分ったのはいささか残念だった。というより余裕のなさに気付かされた。
 いずれにせよ、一年のうちで一番好きな時期なので、一日一日の空気を感じつつ過ごすことにしようと思う。
(宮)

 
2006年02月28日
 
『味覚の麻痺』

出張先北海道は札幌で風邪をひいた。久しぶりに引く風邪が、なぜわざわざ出張先?そして、その日の夜はあこがれの北海道の回転寿司へ。一口すしを頬張るが味が全くしない…もう一口。逆に喉も通らない。その隣で版元NのIが「おいし〜い」と言いながら次々ネタを注文。そうか美味しいのか。味がしないのは初めての経験で少しへこんだ。あえなくお金ももったいないので二皿で注文を中断した。そういえば義母も病気が一番ひどかったとき、病院のご飯を「まずい!」と言っていた。残りを食べながら病院の食事なのにわりと美味しいと思いながら食べた。なのになぜ義母は「まずい」というのだろうと首を傾げていたが、そのうちに元気になるにつれて義母の会話に「味付けがいがいにいけるのよ」が加わり、最後には「美味しい」だったのを思い出す。人間体が元気じゃないと食べ物は美味しく感じられないのだなと思った。かくして元気になってから味覚が元に戻り味覚の多彩さに感動新たな日々を過ごしている。せっかく痩せたのに…嗚呼でも戻った味覚で北海道の美味しいお寿司がお腹一杯食べたいなあ。(やぎ)

 
2006年02月21日
 
『のだめカンタービレ』

良く読むマンガ雑誌に連載されているマンガ「のだめ…」。今かなり話題のマンガのようだ。実は最初から連載を読んだわけではなかったので、どんな出だしだったのか、先日マンガ喫茶に調査(といえばカッコイイが…単にマンガを読みにいっただけ)に行ってきた。このマンガは音楽を志す女の子を主人公にしたマンガ。主人公「のだめ」こと野田恵はピアノ科でピアノを学ぶ学生。最近クラシックブームだというし、マンガを読みながらも色んなクラシックの事も知識として入ってくるのでクラシックなんて…と思っている人にオススメ。朔北社でもつい先だって「舞台裏から見たクラシック 音楽の創造とプロデューサー」という音楽書を出版した。その中で出てくる対談者の宮沢明子(みやざわめいこ)さんが1人2役で弾いたというピアノ曲。モーツァルトの「二台のピアノのためのソナタ」すごくそのアルバムを聴きたいと思っていたら…なんと「のだめ…」の中でなんと主人公ののだめと、同じピアノ科で指揮者を目指す千秋(男)が弾いていたのもこの曲だった(たぶん)!思わぬ共通点に感動が押し寄せた。ちなみに朔北社から出ている「舞台裏…」は出している出版社の私がいうのも何ですが、演奏者側から見た音楽ではなく、プロデューサーの側から見た音楽の裏舞台を覗くことができる読みやすく楽しい本に仕上がっている。読みたい人は是非買ってください!!!!(やぎ)

 
『オリンピック』

トリノオリンピックが開催中だ。メダルの有無に関係なく、私は楽しんでいる。どの競技もそれぞれ良さがあり、見始めると楽しく、次の日のことも考えず、ついつい夜中まで見てしまう。そんな中、今回のオリンピックで一番はまったのが、カーリングだ。これは、なかなか奥が深くて面白かった。何戦も見ているうちに、選手の顔も覚え、ルールも何となく理解でき、面白さが増す。日本は予選で負けてしまったが、いい試合がいっぱいあった。このオリンピックで、私のようにカーリングに興味を持った人は多いと思う。全ての競技に言えることなのだろうが、そのスポーツの面白さを含めて、いろんな競技をオリンピック時期だけではなく、盛り上げていければ、日本ももっともっと強くなるだろうと思うのです。(みなりん)

 
『桜はまだ早いが』

 南大沢に住み始めて10年たつ。ということは、駅までの道を10年歩いてきた。歩行専用路で、両側に桜が植えられている。10年前にはいかにも植えられた細い幹で背だけ伸びた、ひ弱な感じだった。丁度左折する角にある木は、陽はよく当たるが風も強い場所のため、ほかの木と比べて成長が遅く、幹にはすこしも力強さがなく、やせっぽちという風情だった。その木も含めて、いまは、大きく成長し、ときに枝を切らないと邪魔になるまでになっている。
 「桜切るバカ、梅切らぬバカ」などと言うが、人工的に作られた街では、桜も毎年のように枝を切られ整形されている。かわいそうだが仕方ない。その桜並木ごしに見える都立大学の丘陵は春直前で、まだらな桜色に染った森が美しい。
(宮)

2006年02月14日
 
『勘違い』

節分が過ぎて数日後、夫が義父に電話した。70を過ぎた夫婦の二人暮らしなので、たまに電話を入れる。傍にいてあげられない罪滅ぼし。
夫「元気にしとっと?」
義父「いや〜今年は牧子さんからチョコが届いとらんで、さみしかったばい」
夫「バレンタインはまだバイ?」
義父「…」義父は節分とバレンタインがごっちゃになっていたらしい。節分は豆でしょ!しかし嫁の私。そこまで楽しみにしているならバレンタインのチョコレートは期待通り届けなければと気合いは入ったものの、人気者の辛さか予定も目白押し買いに行く時間がなかなか取れず(うそ)時遅し。昨日夜のゆうパックに乗せた愛の荷物。到着は15日となってしまうらしい。義父よ腐らず、しばし待たれぃ。
(やぎ)

『駐輪場』

 南大沢駅前の一帯、多摩ニュータウンの開発地域は人道と車道がきっちり分離されている。また、人道といってもかなりの幅がある。旧都立大学の校門のあたりも、空地がたっぷりあって、学生が(住民もいるかもしれないが)自転車をとめている。ところが、駅の近くに、有料駐車場があり、その他の場所は原則として駐輪禁止となっている。しかし、なにしろ空地がたっぷりあるので、そこに自転車をとめる人があとをたたない。そして、公的機関が、駐輪違反のシールを貼り、時々は自転車を撤去してさえいる。
 そうした光景を日々見ながら往き来している私は「いいじゃないか、自転車をとめたって。これだけ広い空き地があって、いくらとめても誰もすこしも迷惑する場所でも状況でもないのに」と思う。駅前はともかく、大学の校門付近は全く問題がないのに、機械的に取締っている。まことに融通のきかないやり方だと思う。
(宮)

2006年02月07日
 
『変身電車』

いつだったか、いつも利用している電車の時刻表が改訂になった。改訂になって驚いたことがいくつかあった。それは電車が『変身』してしまうことである。例えば笹塚駅に到着した新線新宿行き。乗ったら新宿までしか行かないのかと次の電車を待ったりするだろうが、実は、新宿に着いたら大変身。本八幡行きや大島行きになるのだ。その変身はとどまることを知らず、帰りに神保町から橋本行きの各駅停車に乗るとあら不思議。途中から急行になっていたりして、気が付くと降りる駅を通過なんてこともままある。そして快速調布行きだった電車はいつしか橋本行きに変身しているのであった。毎日使っているとわかるが、初めて使う人にもわかりやすい時刻表になるといいなと思う。変身するわけではないが、ある日遅くなって23時頃の快速電車に乗るとなんと通勤快速?なぜ?まさか夜中に通勤快速が走るわけはないとたかを括っていた私は乗り込んだ。まんまと快速なら止まるが通勤快速は止まらない最寄り駅を通過。次の駅から戻るはめになりトホホである。(やぎ)

『メディア』

 学生時代に「代議士の誕生」を読んで以来、その文章に親しんできたコロンビア大学のジェラルド・カーティス教授が、東京新聞で、ライブドアの堀江貴文前社長をめぐるメディアの対応について書いていた。蓄積された学識を背景に、わかりやすい文章で書かれたバランスのとれた判断に改めて敬服した。新聞紙上のコラムだから全文を読むのに、大した時間は必要としないが、ここに全文引用することはできないので2つほど引用すると、まず、メディアのセンセーショナルな取り上げ方を批判して、「ライブドアは米国のエンロンのように倒産して、多くの従業員を路頭に迷わせたのではない。横柄な若い男が法的問題に問われているだけだ。歴史的な大事件として扱われる価値があるのだろうか。」と言っている。
 それから敬称の問題。「日本では逮捕されると「容疑者」となり、「さん」とは呼ばれず、さげすまれる。メディアはこの偏見的な前例に従い続けるのか。逮捕と有罪は別の話だ。」
 どちらも、この批判に対して、ただちに反論や弁明が返ってくるだろう。しかし、もう一度、出発点に戻って、自分の頭で考えることが大切だとカーティス教授は言っているのである。
(宮)

2006年01月31日
 
『急な坂道』

昨年11月にめでたく結婚した友人のお宅に遊びにいった。5名ぞろぞろ連れだって、駅からの道を歩く。道順は前もってFAXしてもらっていたので片手に地図だ。友人宅近くに急な坂道(下り)、その後急な坂道(登り)と続く地図に不安になる。そんな急な坂なのだろうか?と辿り着いた坂道前で下り坂を見渡すと、前方3〜5メートルの下り坂、谷があり、すぐに全長5メートルほどの面白地形が目に飛び込んできた。あまりに小さい坂道になんだか拍子抜け…ゆるやかなV字の坂の谷間で人なにを思う????でもいっちょ前に雪が凍り付いた場所はツルツルすべりそうな坂道であった。車はどんな風にその道を走るのだろうか?一見の価値ある坂道だったなあ。(やぎ)

 
『楽しかった』

小学校の頃、冬の体育の授業にスケートがあった。校庭に水を入れ、冬限定のスケートリンクを作り、そこで滑るのだ。全員がマイシューズ(スピードスケート仕様)を持ち、冬は当たり前にスケートを楽しんでいた。そして、結構上手だった、私。(←自慢)
トリノオリンピックを間近に控え、フィギアスケート、スピードスケートなど、マスコミも盛り上がっている。スケート靴を履いて、ブイブイ言わせてた小学生時代、あれから、20年・・・・。久々に、スケートをしたくなった。私のスケート魂に火が付いてしまったのだ。
ということで、スケート場に遊びに行った。近場の屋内スケート場は、人だらけだし、久々の氷上にドキドキするも、すぐに勘を取り戻し、スイスイスイと華麗に滑ることができた。心の底から楽しくて楽しくて、ビュンビュン滑り、今からでもオリンピックを目指したいっ!と思うほど、スケートを毎日滑りたい気分でいっぱいになる。
しかし、次の日恐ろしい程の筋肉痛に悩まされることになり、気持ちは若いが体はもうとてもじゃないけど・・・・と、悲しい気分でいっぱいになったのだった。
(みなりん)

 
『シーソー』

 団地内の砂場にあったシーソーが、ある日シートにくるまれて使用禁止になった。事故発生のためと理由が書いてあるが、どんな単純な遊具でも、使い方次第で、危険が全くないことなどありえない。シーソーでどんな事故かしらないが、使用禁止はやり過ぎだろうと思いながら、毎朝脇を歩いている。(宮)

 
2006年01月24日
 
『融雪剤』

 私の記憶では大学入試センター試験の時期は、例年天気が悪い。今年も例外ではなく、昨年末からの厳しい寒さはいまも続いており、丁度タイミングをあわせたように雪が降った。
 東京も積雪があった。
 ニュースによると私の住んでいる八王子市南大沢の首都大学東京では、駅から大学の校門までの道路を融雪剤を使って除雪をして通学に支障のないように万全の対策をとっているという。
 その同じ道を通って、私は毎日駅まで歩いているが、このニュースのあとには、校門から駅迄のかなりの幅で道路に雪がない。降っていても積もらない。
 雪がやんだ夜に帰宅する際、同じ道を歩いたが、ぬれた道路のあちこちにこまかな粒状の融雪剤らしきものが残っている。翌日、翌々日になっても、道路表面のぬれた状態はかわらない。
 これは水ではなくて融雪剤だろうか?
 ともかく、融雪剤の威力には驚いた。
 驚くと同時に、いつまでも残る効果にいささか気持が悪い。
(宮)

 
2006年01月17日
 
『出来る男?』

今の満員電車の中で携帯電話で話している人がいた。乗り込む前にかけて終わらなかったのかな?と思いつつすぐ終わるだろうと思っていたらいつまでたっても電話は終わらない。どうも内容は仕事の電話。対応自体は非常に感じがよいのだが、客には良くても私たちのこの状況の不快感はいかに。ここは会社の中かと勘違いするくらい仕事モードで声も通りまわりは「えっ?!」ここはどこ?という雰囲気になってきた。
はて、この人の仕事場での評判はいかに?もしどんなに仕事が出来で感じのよい人でも、公共のルールを逸脱しているこの現場を見てしまったら、ちょっとげんなりだなと思う。もし付き合っている彼氏だとしたら100年の恋も一瞬にして冷めるだろうなあ。
(やぎ)

 
2006年01月10日
 
『戌年』

年が明けた。かれこれ○度目の年女を迎えた。人生はこれからだ!と思う私。ちなみに義父は今年72才年男。甥今年12才も年男の三戌トリオだ。この三人似ていないようで似ているのかも。揃って末っ子。揃ってわりと忠犬だ。(やぎ)

 
『2006年』

あっという間に、2005年が終わり、2006年になり、もう2週間近く経とうとしている。
早い、早すぎる。もう「あけましておめでとうございます」という時期は過ぎてしまい、すでに普通の生活をしている。昔は、年末も含めて、もっと年始の行事やなにやら、日本の正月を感じていたように思う。1月の末くらいまでは、新しい年が始まったという新鮮な気分があったのに・・・。こう思うのは、年を取ったからなのか、時代のせいなのか。
(みなりん)

 
『大雪』

 暮から正月にかけて、日本は記録的な大雪に見舞われている。次々に降る雪で、蓄積された雪は4メートル近くになった所がある。4メートルの雪はすごい。暖冬の予測が一転して寒冬(こんな言い方があるのか?)になったそうだが、東京でも今年は寒さが厳しい。休日に出社して仕事をしていたら、1人しかいないせいもあるが、暖房をガンガンきかせても、部屋はなかなか暖かくならない。指がかじかむのだから厳しい寒さに覆われているという実感がある。(宮)