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「王様の耳はロバの耳」(2009)
 
2009年12月25日
『丸善の洋書』 ずいぶん久しぶりに日本橋の丸善に行った。改築されたから昔と雰囲気がちがうのは当然だ。ついでに洋書売り場にいってみて驚いた。雰囲気どころか、本があまりないのだ。すぐに気づいたのは、洋書を買う人たちが、書店では買わなくなったからということ。買うべきものがきまっている専門書などの場合にはインターネットで注文するほうが便利だからだ。学生時代には洋書の棚をなめるように見たものだが、いまはその必要もないし、効率的でもないということ。もとにもどることはないわけで、いささかさびしい。(宮)

『早いなあ』 今年もあと一週間もしないうちに終わる。びっくりだ。なのに出来ていないことの多いことにまたびっくりしてしまう。新年は色々と目標をたてるときでもあるから今から来年の目標などを考えておこうかなと思っている。会社ならず、社会全体もこの一年は大変な年だった。けれど、こんな時だからこそ、元気でいたいと思う。健康第一。みなさんよいお年をお迎え下さい。(やぎ)

『あっという間の一年』 あっという間に、一年が過ぎ、気がつけばもう師走。そして、数日で2009年も終わりです。
私にとって、今年一番の出来事は、産休・育休を経て、仕事復帰したことでしょうか。社会人復帰して数ヶ月、育児に家事に仕事に、あまりにも目まぐるしい毎日で、正直、ただ日々が過ぎてしまったという感じです。何もかも中途半端なまま、今年が終わってしまったという気持ちが強く、来年への課題が山盛りです。
やりたいことと、やれることをきちんと見極めて、もっと自分自身努力し、身を引き締めて、がんばらなくてはと思っています。自分がちゃんとできていないことを、忙しいという理由で、良しとしないようにしたいです。
皆様、良いお年をお迎えください。
(みなりん)
2009年12月21日
『ラジオでニュースを聴く』 テレビが毀れたので、やむをえずラジオを聴くことにした。テレビ、ラジオを問わず特定の時間帯にみじかい時間、視聴するだけだが、ひさしぶりにラジオを聴いて、発見があった。ラジオニュースは、テレビニュースよりていねいに伝えてくれる。映像がないぶん、関係者がインタビューに気楽に答えている。これは制作者からかんがえても、映像のことを考えないで楽々と訊けるので、動きやすい。おたがい肩の力をぬいて対している。結果として、ニュースの内容をあんがいバランスよく知ることができる。
そして、ニュースだけでなく、ほかの番組も聴く機会があってテレビ出現以前のことを思い出したり、メディアと人間の関係について考えさせられる。もうひとつ、「昼の憩い」の生放送を聴いた。何十年続いている番組か?
(宮)
2009年12月14日
『銀杏散って』 住まいのある八王子南大沢は、冬は、都心部より2,3度気温が低い。そのせか、例年のごとく銀杏ははやばやと葉が落ちてしまい、景色に色彩がなくなっていよいよ冬がきたと感じる。職場のある神保町ではまだ銀杏は葉がついていて独特の雰囲気がかもしだされている。この差が12月も半ばになるとことさらに気持ちをせっつくようで落ち着かない。今年の年末は仕事のつごうで早じまいすることになり、ますます追いかけられている気持だ。せっかちの性分をおさえておちついて仕事をしなければと思う。(宮)
『保安検査』 週末に飛行機に乗った。荷物は左のコンベアーでチェックされ、私はゲートをくぐった。「ピー」と機械音が異常を知らせる。どうも私に問題があるようだ。チェックさせてくださいと言われ金属探知器のようなもので体中なめるようにその機械を這わせられた。ポケットにはなにも入っていないし、ネックレスだってしていないのに…原因はベルトか…と思いきや、ジャケットのファスナー、セーターのファスナー胴回りのベルトと全てに反応。たぶん一番の原因はベルトだろうが、ちょっと困ってしまった。私はベルトをとるとズボンが落ちそうなジーンズをはいていたのだ。「ベルトはずしてもらっていいですか?」と係りの人。「かなりゆるゆるなんでそれは勘弁してください」と私がいうと係りの女性は「では体を触ってチェックさせてもらいます」と言って体中手のひらを這わせた。金属探知器の反応が大きかったお腹まわりは丹念に…けっこう力を入れてお腹をギュウギュウやられる。やられながら(気持ち悪かったら間違いなく吐きそう…)と思う。ああなんて疑われるって嫌なもんだろうと思った。仕上げに靴の先まで手で押された。こんなことならベルトを外して落ちないように押さえておけばよかったと思うが、あとの祭り。ボディチェックも終え、無事飛行機に。夫はその一部始終を眺めていて「ズボンが落ちるんで…っておまえすげーはずかしいぞ」と言われ大笑いされた。帰りは万全を期してベルトはずし手で押さえ、上着は荷物に押し込んで無事何事もなくゲートをこえたのであった。いやはや。(やぎ)
2009年12月7日
『外来語』 車中で読む文庫本がなくて、以前読んでいるが、『九鬼周造随筆集』を持って出た。そのなかに「外来語所感」という作品がある。むかしもいまも、外来語がさまざまに問題視されることに変わりはないが、昭和初期だからざっと七、八十年前の感覚がおもしろい。九鬼さんは外来語の多用を嫌っているが、たとえば「京の舞妓に『オープンでドライヴおしやしたらどうどす』などといわれると腹の底までくすぐったい感じがする。」と書いている。また「『雛人形セット』『呉服ソルド市』『今シーズン第一の名画』『愛とユーモアの明るい避暑地』『このチャンスを逃さず本日申し込まれよ』などと広告が出ているのを見ると何だか人を馬鹿にしているような気がして私は腹立たしいほど嫌悪を感じる」と書いている。
いまの感覚では、これらは、みなごく普通の表現だと思うが、外来語がすっかり浸透した結果、わたしたちは違和感をあまり感じなくなっているのだろう。というより、この種の表現はいたるところに氾濫しているから、いちいちつっかかっていたら神経がもたない。九鬼さんは、「いわんや新聞に『ブック・レヴュー』『ホーム・セクション』とかいう欄が設けられているのは私には全く不可解である。」とまで言っている。
ちなみに私はまいにち乗っている新宿線の英語の車内放送にいまだになじむことが出来ない。言い難い嫌悪を感じる。外来語の問題とは違うが、七、八十年前の感覚を九鬼さんと共有している気分だ。九鬼さんは、「オールドゥーヴル」と「前菜」、ベースボールと「野球」を例にして、適切な翻訳語を使うことで外来語排撃に努力すべきだと訴えているのだ。
(宮)

『読書が好きになる方法』 もともと本を読むのは嫌いじゃないが、本を好きになる方法を最近発見した。読書は自分だけでやると、自分の中だけで簡潔してしまうのだが、さらにこの本を読んだら喜びそうな人のことを同時に考えることは更に読書を楽しくするのだ。これは思っていたよりもずっと読書が楽しめる方法だ。とくに自分がオススメの本をこの人が読んだら楽しんでくれそうだという友だちを見つけることがここで一番肝心なこと。以前から社内で本を貸し借りをしてはいたが、もっと軽い感じに読み終わって面白かったから貸すだけだった。それでも中には、紹介してもらった中に、うなるようにいい本があったりして、自分だけでは探せないいい世界を見せてくれる。
さて読書仲間との読書だが、オススメを貸すとなるとちょっとした緊張感が生まれる。自分がまず本当に面白かったか?その本を相手が興味を持ちそうか?ということを考えたりする。それで相手が本を読み、喜んでくれると、さらに力が入ったりする。また借りた本がすごいとますます、それに応えたいと、さらに自分の本を読み返したり、本屋で面白いモノがないかと物色したり…。自分の本棚を見渡す。家の本は年に何度か整理する。この本はもういらないと箱にしまったり、3度も読んだけど、まだ読みたい置いておきたい本を仕分ける。気の合う友だちと本の話をできるのはいいなあと思う。だから書店の人も、図書館でも、友だち同士でも面白かった本の話をしてほしいなあと思う。そうしたらきっと本が売れないなんてことはなくなるかなと思う。ただ問題は出版社がみんなが面白がってくれる価値のある本をだせるかということ。こちらも緊張感がうまれる事実だ。極度の緊張は人を萎縮させるが、程良い緊張は人を大きく成長させる?はずだ。
(やぎ)
2009年11月30日
『男のスカート』 つい先日の新聞記事で、男がスカートを着用することを書いていた。なにか新しいものをつねにもとめているファッションの世界のことなので、横目でみてすませた。
ところが、その数日後京王線の明大前駅ホームで車両から降りてきた若い男が、たしかにスカートを身につけている。新聞記事はこうした風俗をふまえたものだったのかと思った。しかしスコットランドの民族衣装で男のスカートは知っているが、目のまえで見ることになるとは!はたしてどんどん広がっていくのか、いちぶのものずきの現象で終わるのか?
(宮)

『麻婆麺』 お昼にラーメン行った。店に入るとずらりとラーメンの名前が漢字ばかりで並んでいた。なんのラーメンなのか検討がつかない。ひとり知っている単語を漢字のメニューの中から探した。しばらくメニューを目で追うと、広東麺と麻婆麺の文字が!知ってる、これなら知ってる。とりあえず広東麺はとろみのついた野菜あんかけがのっている印象。急いでいるのになかなか冷えないのは困るなあと「麻婆麺」を注文した(よく考えばこちらもとろみはついていたが)。ところが…そのあと入ってくる人入ってくるひと「麻婆麺」を頼む。不思議な日だ。なぜこんなマイナー(失礼か?)なメニューをみんなが次々頼むのだろうか…私と同じようにメニューに知っている単語がなく、目で追っているうちあたったのがこれだったのか?謎は深まるばかりだ。麻婆麺は700円。しかしレジにいくと500円ですと言われた。みんなが同じものを頼んだことですでに頭が混乱していた私は700円ですよね?と聞き返す元気がなかった。きっとみんながたのんだことととなにか関連があるに違いない。支払いを済ませて外にでると…ホワイトボードに大きく、いつかのラーメンの名前とともにランチ500円と書かれていた。もちろん麻婆麺もそこに名前を連ねていたが、なぜ揃いも揃ってみんなが注文したのかは今だ疑問である。(やぎ)

『クリスマスツリー』 少し前から、近所の何軒かの家の外壁や出窓が、クリスマス仕様になっています。電飾がキラキラときれいで、こどもも「きれい、きれいね」と喜んでます。
そこで我が家でもクリスマスツリーを飾ることにしました。実家から送られてきた、私の子どものころからの愛用品、昭和のにおいがするレトロなツリーです。
早速、飾りつけてみたものの、チカチカの電飾は線が切れているようで、残念ながらつきませんでした。それでも、私自身も懐かしい気分にひたり、和んでいます。
子どもはというと、「きれい、きれいね」とは言わず、なぜかツリーの前で「ハッピバスディツユー」と手を合わせて、お辞儀をしております。ま、確かにクリスマスは、キリストの誕生日を祝う日ですが‥‥。
(みなりん)
2009年11月20日
『建築技術』 いい天気の街なかを歩いていると、次々と視界に入ってくるビル群の窓や壁の垂直線に惹きつけられる。ひょっとして、まっすぐ立っていないのではと思いつつ注視するが、重なり合う壁の線は平行に走っている。線と線が重なるときがあるが、ピタッとかさなる。当たり前のことだし、そうでなかったら大変だが、建物を垂直にたてる技術に感嘆しながら、ビルの垂直線を辿りながら歩いていく。(宮)

『頭の良さでは…』 ゴミの日にカラスが袋をあさるのは日常茶飯事。人間も荒らされまいとネットをかける。だけど敵もさることながら人間の隙をついてついつい忙しさにかまけておざなりにかけられたネットの端からゴミ袋を引きずり出してくる。カラス対策でどれだけの税金が投じられていることか。先日週末に世田谷線沿いを夫と二人、歩いていた。コンビニの前にとめられた自転車の前後のかごにカラスがとまっている。いやな予感がした。買い物したばかりの食品積まれている荷台。そのかごの先には黒いカラスが乗っている。くちばしには赤いぺらんとしたものが…。みるとかごの上で肉のパックが開封されていてカラスのくちばしには同じ色の肉がくわえられているではないか!袋にしまってあるそんな買い物すらカラスの餌食に?!ぼうぜんとして店の中を見るもカラスは悠然と飛んでいってしまった。道路に放置しておいた荷物でも、殆どの場合持ち去られない日本であるのに、カラスという名のスリは日々こんなにも上手に(?)肉を盗む。それにしてもカラスもかなりのグルメのようだ。同僚の話によるとスーパーの前もカラスに見張られているらしい。いつも狙うのは肉。残飯ならまだしも…カラスも鮮度にこだわりはじめたか。末恐ろしい。肉ばかり食べていたらカラスもそのうち成人病のメタボが問題になりそうだ。
時々考える。人間とカラス。どちらが頭がよいのだろうか。
(やぎ)

『簡単・早いでも、豪華でおいしく』 仕事を終えて、家に帰り、20分くらい夕食の下ごしらえをして、子どもを保育園にお迎えにいく。子どもを連れて戻ってくると、子どもは私にべったりなので、遊び相手をしつつ、夕食を作るのだが、これがなんとも大変で、いつも同じようなものになってしまうし、夕食の時間も遅くなってしまう。なるべく手作りでと思っているのだが、毎日のことだと、手抜きがしたくて、たまらない。
プラスして、私は洗い物が大嫌い(×100)なので、調理も鍋ひとつで済むような、簡単なのに豪華に見えて、しかもおいしい料理があるなら、教えて欲しい。
ちょっと前に友人に聞いた、簡単ポトフは本当に簡単でおいしく、材料も皮むくくらいで、鍋もひとつで済むし、見た目も豪華。もう、何度も作っている。
そんな料理のレシピを、皆さん知りませんか?
(みなりん)
2009年11月13日
『歯医者』 ひさしぶりに歯医者の世話になっている。5,6年に一度ぐらいの頻度なので、行くたびに進化している歯医者に驚く。ドアを入ったら音楽が流れていて違和感をもったのは何十年前であろうか。
今回は診療の技術革新に目を瞠った。看護士が2人がかりで写真をとってくれる。簡単な小道具とデシタルカメラを駆使して、上下、前歯、左右の奥歯それぞれの表面、裏、上部の写真をとっていく。それを、すぐさまモニターに出して、私の歯の現状をていねいに説明してくれた。なにしろ歯の状態がよくわかる。すっかり納得して、治療する気になってしまった。医者ぎらいの原始人には、刺激に満ちた世界である。(すこしオーバーですね)
(宮)

『落とし物』 今年の誕生日に友人にもらったみかんの携帯ストラップ。皮をむいた、2房のみかん。白い筋もついたリアルなストラップだ。気に入って買ってもらった自慢の品。電話するたびにみかんがゆれる。ズボンのお尻のポケットからふた房のみかんがブラブラゆれる。気づいてくれて驚いてくれるたびに嬉しかった。が、しかし、水曜日の日夕方からの会議で外出した際に落としたらしく、相手の会社についた時に携帯を取りだしたらみかんがなくなっていた。いったいどこにおとしたのだろうか。会議が終わり、一度会社に戻る。小さいものだしもう見つからないかも…とも思ったが、さっき歩いた道のりをめがねをかけてじっくり道をにらみながら歩くことにした。半分ほど歩いたところで捜し物らしき物体(ちょっとちぎれてみえた)を発見!きっと車にひかれたのだろうと思いとりあえず、拾ってみる。おやでもどうも違うぞ。よく近づいてみると…感触もやわらかい。げげげ。これは鮭の切り身のかけらではないか!思わずつまんでしまったものを手から落とした。うっかりへんなものをさわってしまった。だれだよこんなところに鮭のかけら…そんなことを思いながらあきらめ気分で某社までの道をあるく。途中なんども諦めて帰ろうと思ったがふと頭にひらめいたことがあり、もしやと某社の入口の水たまりに目をやった。あった!あった!私のみかんは水の中にちんまりと沈んでいた。探して良かった。「おかえり」といって携帯電話につけた。それと同時に、みかんと間違えて拾ってしまった落とし物を思い出して苦笑いしてしまった。ものを拾うときは気を付けなければ。夫に話すと「みかん、腐っておちたんじゃないの?」と一言。思わず笑ってしまった。(やぎ)
2009年11月6日
『岸洋子』 相変わらず、深夜に目が覚めてラジオ深夜便を聞いている。その夜はいずみたくの特集でそう熱心に聞き耳を立てていたわけではなかった。そのうち岸洋子の「希望」とアナウンスがあり、歌が始まったら目が覚めた。ずいぶん久しぶりに聴いたのだが、らくらくと出てくる、声量ゆたかで澄んだ歌声に聞き惚れた。深夜便には掘り出し物があるといい気持ちになってまた眠った。
おどろいたのはその週末の新聞が、岸洋子の[希望]を特集していたことで、これまた、いつもにまして読みふけってしまった。偶然の符合だが、ひとりでおおいにおもしろがったことである。
(宮)

『早食い』 一人外にランチを食べに行く人は意外に多い。私もその一人だ。話し相手がいると食べるのが遅くなるが、一人食は話し相手がいないので、嫌でも食事に集中してしまう。ある日私と同じように、一人でランチを食べにきている若い女性が椅子2つあけてカウンターに座っていた。私が到着したと同時にちょうど料理が運ばれてきた。私はランチを注文をし、待つ間に読書。しかし数分のうちに彼女はレジへと向かった。時計をみると、私が席についてから、わずか5分しかたっていない。まさか美味しくなかったから怒って店をでるのかと思いきや(きになって器を覗いてしまった)なんと、ちゃんときれいに平らげているではないか!いや〜女でもこんなに食べるの早い人もいるのだなと関心しているうちに、私の前に料理が運ばれてきた。そして10分後、私はその料理を平らげていた。いやはや食べるのが早いのは私も同じか。いや彼女の2倍はかかってるけど…まあ彼女の方がかなり若かったし勢いが違うか、などとぶつぶつ思っているうちに休み時間は過ぎていくのであった。(やぎ)

『アンパンマンミュージアム』 横浜にある、アンパンマンミュージアムに出かけた。子どもは到着したときから、「アンパンマァーーーーーン!!」と大興奮で、アンパンマンコールをしていたが、好きなキャラクターは「バタコさん」である。
「アンパンマン」や「バイキンマン」や「ドキンちゃん」など、人気のあるキャラクターは、グッズも目白押し。しかし、わが子が好きな「バタコさん」は、人気キャラクターではないからなのか、それとも、脇役だからなのか、グッズがあんまりない(涙)
それでも、大好きなバタコさんのグッズで欲しいものを「これ」「これ」と本人が数点選んで、買った。あれもこれもと欲しがらず、欲しいものだけを真剣に選ぶ姿に、わが子ながら感心してしまった。(私だったら何でもかんでも買いそう)
というわけで、バタコさんグッズが少なくて、せつなそうな子どものため、オリジナルグッズを作るべく、バタコさんの手作り用のワッペンやボタンをあれこれ選び、買って帰ってきたのでした。「バタコさんグッズ」もっと増えるといいなぁ。
(みなりん)
2009年10月30日
『出版社』 小社の事務所がある4階建てのビルには、出版社が4社入っている。自分たちも同類なのでおかしいが、夜ともなると土日、祝日いつであれ、灯りのともっていない日がない。4社すべてに人が出てきており、仕事をしている。連休といえど、4社すべてではなくとも何社かはでてきている。おそらくいずれの社も締め切りに追われ、完璧な仕上がりを目指して日夜、孜々として働いている。業界の不景気が言われ始めて久しいが、それでもなぜか、あるいはそれ故か、休み返上で仕事に精出している。因果な職場である。(宮)

『ありがとう』 倉庫の帰り道バスに乗った。小さなバスには微妙な人数の人が乗っていた。キョロキョロするも、一声かけないと座れなさそうな席とシルバーシートしかあいていない。ふと座っていた男の子がまっすぐな目でどうぞ!と自分の席を譲ってくれようと声をかけてきたではないか!私そんなに座りたそうにしていたのか…。席があいてなかったわけじゃない。私はありがとうといいながら譲られるほど席が空いていないわけじゃあなかったのでシルバーシートのほうに座った。次の駅で赤ちゃんをだっこしたお母さんと、連れだったおばあちゃんが乗ってきた。後ろの座席でゆったり座っていた人たちが一斉に座席を詰める。赤ちゃんをつれたお母さんは一人掛けのシルバーシートへ。おばあちゃんはその前にたった。そばにいたいようだ。私はおばあちゃんの背後の席を立って後部座席へとうつることにした。少年は私を目で追い、座ったのを確認。おばあちゃんはめでたく空いた席に。気持ちのよいくらいはきはきした少年。隣の席にいるのは妹のようだ。後部座席からほほえましく2人をみていたら少年は鼻をほじり、ぱくっ。なぜかその光景をみても少年のすがすがしさなぜかかわらなかった。バスを降りるだんになり、みんな口々に運転手さんに有り難うございましたと言っておりていった。もちろん、少年は誰よりも大きな澄んだ声で「ありがとうございました!」とg言ってバスを降りていったのだった。ありがとうとはいい言葉だなあ。と、しみじみ思いながら私も最後にバスを後にした。(やぎ)
2009年10月23日
『アメリカンゴシック』 新刊絵本を出すとき、帯つけるか否かが問題になる。その本のなかみを知ってもらうために店頭の読者に伝えたいメッセージがいろいろあり、帯がほしくなる。ところが表紙デザインとの関係から帯をつけられないことが多い。さいきん小社でよくやるのが帯のかわりに、シールを貼ることだ。『どうぶつにふくをきせてはいけません』には、「動物が動物のオシャレについて考える会 推薦 NONSENSE BOOK」と表示した金色のまるいシールをつかったが、これはわりに好評だった。
『どうぶつにふく・・・』とおなじ作者の、小社9月刊行の『マクドマルドさんのやさいアパート』には「こんなアパートみたことない!!」と表示してある真っ赤なトマトを張ることにした。黄色の表紙に真っ赤なトマトが鮮やかに映えて、私はおおいに気に入っている。書店にきたお客さんがこのトマトに注目してくれると、編集者の狙いどおりということになるのだが・・・。
ところで、『マクドマルドさんのやさいアパート』の表紙の絵はグラント・ウッドというアメリカ人画家の「アメリカンゴシック」という絵のパロディだそうだ。アメリカの絵画をみたことがある人のなかに、(当然のことながら)この絵をしっているがいて、絵本の表紙をみたときに「これななんだ?」と本を手にとってくれれば、うれしいことがもうひとつふえる。私の友人にこの絵に気づいた人がいました。アメリカ人ならともかく、日本人読者にわかってもらえて、作者冥利につきる。というわけで、作者も編集者もいろいろな仕掛けをして楽しんでいるし、読んでもらうための努力もしているというわけです。
(宮)
2009年10月16日
『図書館の本』 最近、首都大学東京の図書館を利用するようになって、書架をながめると公共図書館と景色がまるで違うことに気づいた。公共図書館はいま一般的に新刊書を、カバーがかかったまま背にラベルを貼り、フィルムコーティングしている。それにたいして大学図書館は、帯、カバーという付属物を全部取り去っている。フィルムコーティンもしてないので、くすんだ色合いの表紙をみせて本がならんでいる。編集者としては、カバーデザインにおおきな精力を注いでいるので、捨て去られたカバーのことを考えるといささか複雑な気持ちだが、表紙をみせて落ち着いた雰囲気でならんでいるのをみると、本の価値は内容次第といっているようだ。比較して公共図書館の本がすこし安っぽく感じたのは事実です。(宮)
2009年10月9日
『台風18号』 7日夜、ベランダに出ている物を室内に入れ、物干し竿を動かないように支柱にしばりつけた。
念のためにしたことだったが、これは適切な処置だったようで、7日から8日明け方にかけて、風雨が吹き荒れたが、気にせず寝ていられた。朝の内、余燼がのこっていたので、大きい傘を持って出勤しのだが、これは大はずれで、出勤途上たちまち青空がでてきて、昼ごろには台風一過の気持ちよい天気になった。台風の日本上陸は、ずいぶん久しぶりらしいが、鉄道、小中学校を始めサラリーマンまで、オーバーにいえば日本中で台風に振り回されたわけだ。
(宮)

『台風一過』 久しぶりに東京にも台風が直撃かと思われていた。が、直撃はまぬがれ、おとといと昨日の激しい雨が降ったりやんだりしているうちに経路をそれて去っていった。しかし、経路の先での被害はすさまじかったようだ。屋根が飛んでしまった家や電柱がへし折れている場面、リンゴ農家の深刻な被害がニュースで流れた。今回の台風は他人事ではない。進路によってはそれは我が身なのだ。昨日は台風が東京を直撃しなかったのにもかかわらず、時速30キロの風が吹き荒れていた。時速30キロだとすると、車が走る速さではないか!なんとおそろしい!もし看板やなにかの破片が風に飛ばされたらどうなるのだろうか。歩いているあいだ気が気じゃなかった。普段なら風が強い日でもそんなこをを考えることはなかったのに、なぜかこの風には恐怖すら抱いてしまった。本当に自然災害は恐ろしい。台風が去り真っ青な青空があった。昨日までのことを忘れたかのような青さが目に痛い気がした。(やぎ)

『延期』 こどもの運動会が、雨で延期になった。前日、予報をみて、先生たちが中止を決定したのだか、当日、朝起きたら、きれいに晴れていた。その後、雨が降り出したので、中止は間違ってなかったのだが、朝のあの晴れた空を見て、先生たちはドキドキしただろうなぁと、思ったのでした。
運動会でやる体操やダンスを、保育園で毎日練習していたようで、家でもよく歌って踊っている。私にも踊れ、歌えというのだが、どんな内容なのかわからないので、その期待にこたえられず、こどもに泣かれる日々が、あともう少し続く。
(みなりん)
2009年10月2日
『自民党総裁』 9月24日の自民党総裁選の討論会で、小泉純一郎元首相の次男で総選挙に初当選した進次郎氏(28)が3人の候補者に「歴代の自民党総裁で最も模範としているのは誰ですか。私に対するお気遣いは全く必要ありません」と質問したというニュース。
答えは、谷垣氏「吉田茂と宮沢喜一」、西村氏「吉田と岸信介」、河野氏「自分が模範になれるように」というものだった。この答えのおかしいところは、吉田茂は自民党総裁になったことはないのに候補者2人が吉田の名前をあげていることだ。吉田茂は、総裁はおろか自民党員になっていなかったと記憶する。昭和30年に、保守合同で自由民主党が出来、初代総裁に鳩山一郎が就任したが、吉田は佐藤栄作ら数人とともに入党せず、孤塁をまもった。この歴史を忘れてか、知らずにか、尊敬する政治家としてではなく、総裁として吉田の名前を挙げるのはいささか恥ずかしくないか。質問の現場でうけたのは、そんなことではなく、「私に対するお気遣いは全く必要ありません」という進次郎氏のひとことだった。私の友人の卓見をつけくわえると、河野氏は、「河野洋平」をあげて、自分は父と同様に首相になれない総裁で終わるかもしれないが、自民党再生のために身命を賭して働くと言うべきであった、と。
(宮)

『かがくいひろしさん』 『だるまさんが』『だるまさんの』『だるまさんと』などのだるまさんのシリーズで知られる、かがくいひろしさんが亡くなられた。このニュースを、私は書店さんとの懇親会の席で聞いた。身近なものに命をふきこむような温かい絵で描かれた作品は、なんだか人をほっとさせてくれる。お会いしたこともないのに、なんだか大事な人がいなくなってしまったような心にぽっかりと穴のあいたようなこの気持ちは、なんなのだろうか。実は彼の絵本は本屋さんで立ち読みしただけ。大ファンというわけでもなし。だけど出す本出す本が気になりだした矢先の衝撃だった。一冊も本が手元にないというのにおかしな話だが、本当にそんな気持になってしまったから不思議だ。じわじわと人の心をひつける、かがくいひろしさん。心からご冥福をお祈りします。(やぎ)

『セレブ・デ・トマト』 なんともすごい名前なのだが、トマト料理専門のレストランである。最近話題の店だということでそれほどトマト好きと言うわけでもないのだがさっそく行ってみた。都内に青山、表参道、赤坂と三店舗あり今回は赤坂へ。こじんまりした店だがランチの時間はほぼ満席。友人とトマトのリゾットとトマトのパスタを各々頼んだ。それぞれにまるごとトマトのサラダとトマトのデザートが付く。「こんなおいしいトマト食べたことない!!」という感想を書きたかったが、結論は「別にどうってことないよね」。一本数千円もするトマトジュースなども売っているのだが、いったいどういう人が買うのやら。今は話題でもすぐに飽きられそうな気がする。店の近くに老舗のあんみつ屋さんがあり、おみやげに買って帰ったが、こちらは餡の甘さ加減といい豆の塩加減といい本当においしかった。長く続く店の味とはこういう物なのだと実感した。(むく)
2009年9月25日
『秋のかぜ』 ようやく秋らしいさわやかな季節になったはずなのだが、外出して事務所に一歩あしを踏み入れると、むっとする熱気を感じる。そとのほうが気持ちいいのだ。外気と室内環境に時間差があって、せっかくさわやかな気持ちでもどってきたのに、それをうち消される。しかし真冬にはこの鈍感な室内環境が逆にそとの猛烈な寒気を和らげてくれるわけで、ものごとには両面があるということらしい。(宮)
2009年9月18日
『デビッド・マッキー
10月に出る「ミスター・ベン」シリーズの最終巻『ミスター・ベンとサーカスのなかまたち』の最終校正をやった。そしてとぼけた味わいと、心のつながりが難問を解決していく話しの面白さに改めて感心した。この4冊のどれをとってみても、はなしの違いをこえて、共通するマッキーさんの感性に、ますます引きつけられていく。それにあの絵。色のついたページと線描のページのコントラストと、自由奔放に延びていく描線を追いかけていく楽しさには、時間のたつのを忘れる。
デビッド・マッキーの絵本は1977年以来、多数翻訳されていて、アマゾンでは29件データがあるし、図書館流通センターのデータベースには79件もある。そして、デビッド・マッキーといえば「ぞうのエルマー」が有名で、アマゾンの29件のほとんどは「ぞうのエルマー」関連だ。しかし、マッキーさんにはもうひとつ、見過ごすにはもったいない「ミスター・ベン」シリーズがあると、私は言いたい。調べてみると1977年の1冊目の翻訳出版は実は「ミスター・ベン」の1冊である。
30年を隔てて、「ミスター・ベン」シリーズが十全の形で刊行できたと考えている。なにより、この面白さを伝えたいとの一念から、敢えて書いた次第です。
(宮)

『いつまでが子ども?』 私には甥ばかり7人もいる。その一番大きな甥は今年24歳になる。大学院の2年生だ。九州の大分から去年あたりから会社見学や試験、面接のために上京する。もちろんお金を豊富に持っているわけではないから、親戚の家に身を寄せることを考えるだろう。そして我が家がその場所となったわけだ。面接その他は一日のうちの数時間だから、ほとんどは家にいることになる。久々に毎日ご飯を朝晩炊いていたら通常夫婦二人ですごす時の倍の早さで米びつが空になってしまった。ほんと子どもを育てるのは大変だろうなと思う。ご飯代は家族が多ければ多い程増えていくのだ。果たしていつまでも子どもでなく自分で何でもできる年の甥なのに、ついつい世話を焼いてしまう自分がいる。もう一つ大きな甥をみながら思うのは、お年玉というのはいったいいつまであげるものなのだろうかということだ。日本では20歳が成人だ。心をおににしてそういう方針を貫けるといいのだが、情にながされ、大きななりの甥にお年玉をつつんでしまう自分が悲しくもある。季節とはまったく関係ないが…(やぎ)

『軽井沢にジョン・レノンの足跡を訪ねて』 ビートルズのリマスター盤CDが出て話題になっているからと言うわけではないが、夏の終わりの軽井沢にジョンの足跡を訪ねる小旅行に行って来た。相棒はビートルズ大好きな友人。まずはジョンのよく訪れたという喫茶店「離山房」。塩沢湖に行く途中にあり、まだ日差しは強い日だったがオープンな席には心地よい風が吹く。その日の宿泊は万平ホテル…というわけにはいかなかったが、予約していたホテルで、普通のツインがいっぱいなのでスイートルームをお使いくださいとラッキーな展開となった。次の日には万平ホテルの雰囲気だけでも味わおうとカフェテラスへ。ジョンは滞在中ここでロイヤルミルクティーを注文するのが日課だったそうだ。もちろん同じものを注文する。歴史のある万平ホテルは本当にいい雰囲気だ。その後は旧軽井沢をぶらぶらし、ここでフランスパンをよく買ったらしいとか、ここでコーヒー豆を買ったそうだとか盛り上がる。さすがに旧軽は混雑していたが二日間予定通りの行程の旅が出来た。ジョンが愛した軽井沢をちょっぴり味わえた二日間だった。(むく)

『日々の努力』 先日、子どもの保育園の保護者会があり、保育士を交え、親同士、子育てについて話した。自分だけだと思っていたが、みんな同じようなことに悩んでいたり、イライラしたりもしていることがわかり、なんとなくホッとした。
その中で、「しつけ」について、それぞれの家庭でどうしてるかという話になった。私は、子どもが大きくなったときに、恥ずかしい思いをしないように、当たり前の生活習慣が身についてくれたらいいなと思っている。だから、こういうことはしてほしい、できていてほしいということを、毎日の生活の中で、私自身もきちんとやるようにした。親の背中を見せるという方法だ。脱いだ靴はそろえる、洗濯物は洗濯カゴへ、お部屋はきれいに出したものは元の場所へ片付ける、食べた食器は台所へ、などなど(細かいな‥)、半年くらいかかったけれど、色々とできるようになった。親としては、正直、ものすごく疲れていて、家に帰ったら何にもしたくないときだってあるし、めんどくさいときもあるけれど、少しだけ無理をして、やってみる、笑顔で。
親の真似をしたがる今だからこそ、できる方法かもしれないが、「あれしなさい」「これしなさい」というよりも、ずっと良かったと思う。それに、親がやらないことを、子どもにだけやらせるもの、ねぇ?
(みなりん)
2009年9月11日
『雑草』 地下鉄神保町駅A2出口から九段坂方向に歩いて、みずほ銀行の角を曲がるとその道は専大通り。最初の信号までの200メートルほど、立派なビルが並んでいる。それぞれのビルの1階は店舗用でこれまでにずいぶんいろいろな店があった。しかし、どこも長続きせずシャッターが並んでいる。シャッター通りだ。そのシャッターと歩道の境目に、なにげなく目をやると、けっこう草が生えている。わずかな土から3,40センチの草まで出ている。更地になったところにたちまち草が生えるのはあちこちにあるが、ビルと歩道のあいだの雑草で、シャッターがおりてから動きがないこと、雑草の生命力の両方に驚いた。(宮)

『布施明コンサート』 文京シビックホールでの布施明のコンサートに行って来た。友人が大ファンなこともあって今までにも何回も行っているのだが、なんだか年々歌がうまくなっていくような気がした。ホールの音響がいいという事もあったのだろうが、今回は本当に響き渡る声に堪能した。自分の持ち歌だけではなく、カンツォーネなどの外国の曲やドリカムやミーシャの曲まで幅広いレパートリーで楽しませてもらった。
毎回何故か一人芝居を長々とやるコーナーがあるのだが、今回はそれも短めで歌をたっぷり楽しめた。
それにしてもおばちゃん、及びおばあちゃんのファンの多いこと多いこと!最後にファンが花束やらプレゼントを渡せる時間があるのだが、50人以上がずらっと並び30分はかかってしまう。それが楽しみなファンも一杯いるのだろうが、なんとかならないのかといつもその場面にくると思ってしまうのだった。
(むく)
2009年9月4日
『選挙と数字』 投票所にいくと、入場券をスキャンして投票用紙を渡してくれる。投票した人数はコンピュータに記録されているわけだが、投票用紙は、投票箱から取り出してかぞえるしかない。さすがにいまは機械でかぞえるらしい。スキャンする職員をみていて、昔の投票所と開票所の風景をおもいだした。四十数年前の選挙管理委員会職員だった私の経験では、入場券の印刷以外はすべて手作業だった。そしてたいがい、投票所でかぞえた投票者数と開票所でかぞえた投票者数が一致しないのだ。長年の経験からこのことのあること知っているベテラン職員が白票を操作することで、数字をあわせていた。選挙結果を操作するわけではなく、数字を一致させたいのである。
機械化が進んだ現代でも、日本の選挙システムでは一枚一枚の投票用紙をかぞえる作業があるので、あいかわらずベテラン職員の出番が残っているのかもしれない。100%数字が一致しないのはやむをえないと思うが、選管としてはそういうわけにもいかず、数字を、ぴたっとあわせているのではなかろうか。
(宮)

『エコポイント』 親の部屋のエアコンが壊れてしまった。買い換えたいが自分たちではわけがわからないと言うので、代わりに家電量販店に出向いた。部屋の大きさや今の配管の様子など伝えた上でメーカーや機種を決めなければならないので年寄りではなかなか難しいだろう。すべて任されていたので私一人で工事日まで決めてやれやれと思った矢先、面倒なのはそれからだった。
エコポイントの申請の仕方を説明されたのだが、これがややこしいことこの上ない。レシートは原本を添付、お店の保証書とメーカーの保証書は合わせてコピー、リサイクル券の受け取りもコピーして添付。申請書には製造番号を書く欄まであるのだが、その欄の小さいこと。そこは保証書を見ながら書けとの説明。極めつけが、交換したい商品の番号はネットで調べてくれと言う。年寄りだけの世帯だったらどうするんだろうと心配になった。案の定隣で説明を受けていた老夫婦はネットなんか出来ないから何でもいいから番号を教えてくれと頼んでいた。それでもお店の対応はこちらではわからないの一点張り。
まったくエコポイント、エコポイントと政府は騒いでいたが、老人にやさしくないやり方で腹が立つ。政権交代したことだし、これからはもっと老人が住みやすい日本にしてほしいものだ。
(むく)

『これは私の!』 保育園からの帰り道、家の近くできた、こども服のお店の前を通ると、娘が「ああー」と言って、お店の中を指差している。見ると、娘が持っている長ぐつと同じ長ぐつが置いてある。「一緒だね」っと言って通り過ぎようとすると、中に入り、持って帰ろうとする。どうやら、自分の長ぐつだと思っている様子。
「これは、あなたのじゃないよ」と、いくら言ってもダメ‥‥。家にある長ぐつはサイズも小さくなり、新しいの買おうと思ってたので、同じ柄だけど、大きなサイズを買って帰ることにしました。
家に着き、娘はいつも長ぐつがしまってある靴箱に、新しい長ぐつをしまおうと、扉を開ける。しか〜し、そこにはもちろん長ぐつがあります。
しばらく沈黙の後、「あれぇ〜〜」と首をかしげ、何事もなかったかのように、新しい長靴をむぎゅむぎゅと押し込んでいました
(みなりん)
2009年8月21日
『秋』 例年、月遅れのお盆のころは夏の盛りという空気になるが、今年の東京は8月も大分入ってからやっと夏らしい暑さになった。夏が出遅れたという感じだ。しかし、首都大学東京脇の桜並木には早くも黄色くなった葉が出て、いくらかは路面に落ち始めている。この時期の約束みたいな景色になるわけだが、すると今年は、オーバーに言えば梅雨から一気に初秋に飛んだというわけだ。それはともかく、年ごとに細かな違いはあっても、季節はけっこう規則正しく移っているらしい。(宮)

『精霊流し』 お盆で長崎の佐世保に帰ってきた。精霊流しは毎年の行事だ。東京に生まれ東京に育った私は、お盆とは墓参りという印象しかなかった。結婚した当初は驚いた。こんなにも毎年盛大に死者を迎え、そして3日ののちに送るという行事があるのか。まずお盆のためのお花やお供えを準備する。いつもとちょっとちがって華やかだ。お盆用の提灯を祭壇の前に準備する。13日には平たいおもちをお供えする。むかえだんごだ。朝早くからお坊さんが家々をまわってお経をあげる。そして夜になると窓際にぶらさげたちょうちんに火を入れる。ご先祖様がまよわないで家にこられるようにするためだ。そして15日は送り団子をつくる。これは丸いかたちのおだんごだ。夕方から船が家々を出発する。(初盆でなければお供えしていたお花や、おかし、果物をコモという葦?か藁のようなものに納豆のように包んで飾りつけ持っていく)初盆を迎えた家の船のまわりには親戚達が連なって家から精霊流し場所まで爆竹をならしながら盛大に闊歩していく。盛大なのだけど、初めてみたとき、私はとても悲しいな、とその光景を見て思った。ちょうどその年、会社で仲良くしていた島さんというおじいさんがなくなったこともあり、その魂を思ったら涙が出てきた。にぎやかな中の寂しさ。そういうものが初盆の精霊流しにはあると思う。ちゃんとご先祖さまといられる3日間。彼らが存在してたからこそ今私たちが生きているんだなあと思った。夜に移動の予定があった私たちは、今年の精霊流しをいつもより3〜4時間早い時間に済ませた。コモ置き場で船にみたてたコモを置き、お線香を焚いて祈る。「今年は早く帰すつもりかい」とご先祖様の声が聞こえたようでちょっと申し訳ないねとみんなで笑った。来年また会いましょう。(やぎ)

『新型インフルエンザ』 新型インフルエンザが流行期に突入とのニュース。
幼児は重症化するというし、私自身がかかって、子どもにうつすのも嫌だし、もちろん自分もかからない方がいい。なので、どのくらいの効果があるかわからないが、予防のために、通勤や人ごみに出るときは、マスクをするようにしてる。世間的には、騒ぎすぎだという人もいっぱいいるし、予防的にマスクをしてる人も、現段階ではあまり見かけない。感染しないように予防するという意味では、個人の自由なので、それでいいと思う。しかし、「人に感染させないようにする」ということにおいて、あまりに無関心な人が多すぎる。免疫を持ってる人がいないのだから、集団生活の中で、うつしたりうつされたりはしょうがないと思うが、電車の中で、口に手も当てず、平気でひどい咳をしてる人がいる。自分は絶対「新型インフルエンザ」ではないと思っているのだろうか?(もし新型インフルエンザじゃなくても、咳をするときくらい手をあててほしい)家を出る時点で咳がひどい人は、マスクをするくらいの配慮があってもいいと思うのだが、どうだろう?
(みなりん)
2009年8月7日
『アルフレッド・ハウゼ』 夜中に目が覚めるとラジオ深夜便になる。昨夜(6日深夜、暦の上では7日)はアルフレッド・ハウゼ楽団を特集していた。戦後の加藤登紀子や菅原洋一と協演したときの演奏もあるが、1930年代のコンチネンタル・タンゴを聴いたら、懐かしさを覚えた。自分が生きていない時代に懐かしさを覚えるのはおかしいが、読んだり見たりして作り上げられたイメージがあるせいだろう。半睡半醒状態で聴くと、一段と印象が強い。(宮)

『蝉の声・蝉の味』 先週の土曜日に蝉の会なるものに参加した。蝉の会とはこの旬の蝉の季節に蝉を食べるという虫食の会なのだ。まえに取引先の人と自然科学への興味について熱く語り合ってる中で昆虫料理の会があることを知った。興味があれば次回声をかけてくれるとのこと。ちょっとコワイ気もしたが、その方のとても上手な味の表現についつい興味をひかれて、「ぜひ!」といって別れた。そのあと部署がかわられてしまったので誘って貰えるかは謎だった。というのはこういうその場で盛り上がった話は社交辞令のこともあるからだ。7月のある日久しぶりに連絡をもらう。覚えてくれていたことが嬉しかった。行きますと返事をして1日に平和島で集まった。まずは蝉採集。小学生以来の虫取り網を手にして蝉をねらう。公園の林には蝉の抜け殻がいっぱい。ジージーとやかましいくらいの大合唱だ。地面には穴があいている。蝉の穴らしい。ここから夕方過ぎくらいから幼虫が上がってくるのだと言うことだった。そして調理。成虫は油で揚げたスナック風のもの、幼虫は薫製もしくは天ぷらとなった。以外に癖がなく見た目さえクリアできれば美味しいものだった。幼虫はピーナッツようなナッツ系の味がした。未知の世界を体験するのはコワイけど新しい世界を見せてくれることもある。集まった人たちのいきいきとした顔が印象的だった。秋はバッタ会があるようだ。時間があえばそちらも参加してみたい。(やぎ)

『山手のドルフィン』 友人と横浜に遊びに行ったおり、荒井(松任谷)由美の歌「海を見ていた午後」に出てくるドルフィンというカフェに行ってみた。歌詞では山手だが実際は根岸駅からバスで三つ目、住宅街の坂の途中にその店はあった。35年も前の歌なのでさすがに外観はかなりくたびれている。かつては大きな窓一面に横浜の港が見えたのであろうが、今は乱立するマンションの間からなんとか見えるといった程度。そして何より驚かされたのはウエイトレス二人が東南アジア系の方だったこと。二人で話している時には母国語が飛び交う。
それでも歌詞どおり友人はソーダ水を注文し、ソーダ水の向こうに貨物船は見えなかったが静かな午後は堪能できた。他に来ていたもう一組のお客も私たちと同じような年代だったので、やはりユーミン世代なのであろうか。時代は流れ、いろんな物が変わっていっても歌だけは変わらず心の中で生きているんだなぁとソーダ水の澄んだ色を見ながら思った。
(むく)
2009年7月31日
『ひと』 一部の地下鉄はワンマンカーとなった。「ゆりかもめ」のように無人運転の乗り物があるくらいだから地下鉄のワンマンなど何ほどのことでもないのかもしれない。私はこれらにおおいに不安を感じる。電車を利用するとき、行き先の確認や、特急、急行、快速、通勤快速。各駅停車のどれに乗ればいいのかなど、聞きたいのだがホームに駅員の姿がなく、聞くことはできない。銀行に電話すれば、録音されたこえにさんざん指示されないと用が足せない。ひとをなるべくつかわずに仕事をしようとしている。人件費節減という目的が優先されている。ひとのちからをもっともっと活用したらいいのにと思う。ひとを介在させたサービスこそ私が欲しいサービスである。そしてそのサービスをしてくれるひとに十分な報酬を支払ったらいいと思う。鉄道会社として、どこに資金を投入すべきかをかんがえたとき、電車のスピードを早くして交通機関としての利便性をたかめることに価値をおくのではなくて、ホームに駅員が姿をみせて、いつでも年寄りや不案内の旅行客に親切に対応することを価値あるサービスと考える、そういう価値の転換が必要ではなかろうか。(宮)

『人が死ぬということ』 最近、死というものを意識することが多くなった。去年学生時代の友人が亡くなった。大ファンであった忌野清志郎も亡くなった。マイケル・ジャクソンに、同世代の川村かおりが亡くなった。親戚が突然死した。昨年のこの時期もしかり、親戚のおじさんが車に轢かれて亡くなった。ずっと講演会を聞きたいと思っていた人のホームページの責任社の名前が変わっていたらそのだんな様が亡くなっていた。年をとればいつかはやってくる瞬間だとはわかってはいても、ふと恐くなった。朝起きてまず、自分が生きていることを確認。そして夫が息をしていることを確認。ああよかった今日も生きていると思う。生きているって尊いなあと思う。(やぎ)

『子どもの頭の中』 息子がまだ幼稚園に上がる前だったと思う。なにげなく「○○が大きくなって大人になったらママはおばあちゃんになっちゃうんだよ。」と話をした。すると突然大声で泣き出したのだ。「ママがおばあちゃんになっちゃったら、その時は誰が僕のおかあさんになってくれるの?」
まったく当たり前のことを子どもでも普通に理解できると思って言った言葉がひどく子どもを不安にさせてしまったのだ。「おばあちゃんになっても、おかあさんはおかあさんなんだよ。」と説明したがなかなか理解できないようだった。子どもの真っ白な頭の中では大人の常識や思い込みは通用しないのだなと思った懐かしいエピソードの一つである。
(むく)
2009年7月24日
『ニュース』 夜遅い時間に帰宅すると、NHKの総合かBSでニュースを見ることが多い。さいきん気になるのが主なニュース5項目などといって画面に出てくるニュースの見出し。1行で内容を伝えるために表現を極限まで圧縮しているのだが、やりすぎて、アナウンサーの言葉を聞いてはじめて意味がわかることがけっこうある。もっと出来のわるいのは日本語の表現法をかってにこわして、変な文体をくりかえす。読んで気持ちわるい心地になる。新聞の見出しと同じで短く核心をついた表現をめざしていると思うが、どんなにみじかくても日本語としての表現なのだから、ここはテレビの影響力をかんがえて、気をつけて文章を作ってもらいたいとおもう。(宮)

『日蝕』 このあいだの日蝕で日本がわいた。日蝕とは月が太陽と地球の間に来て、地球から見ると太陽が月によって隠される現象だ。その位置にぶつかると昼間なのに太陽が隠れて暗くなるという。東京でも雲の切れ間から見られたというが、残念ながら私自身は見ることはなかった。テレビのニュースで奄美の島からの日蝕映像を見る。丁度太陽と月の位置が重なりあたりは暗くなり、月の周りから環のような光が見えた。その後ダイヤモンドリングというのが見えるらしい。確かに輝く輪にダイヤのようなものがついて見える瞬間があった。自分がなんだかちっぽけに思えた。テレビの映像でこれだ。実物を生きているうちに見られたらいいなあ。(やぎ)

『ハイヒール』 朝、前を歩いている若い女性(たぶん20歳前後)が10p程あるピンヒールの靴を履いていた。ただ履き慣れないのか、膝を曲げてふらふら、足首はガクガクとなんともおぼつかない格好で歩いている。これはかなりみっともない。せっかくの素敵な靴が台無しだ。高いヒールの靴を履くならさっそうと歩いてもらいたい。かっこよく歩けるようになるまで頑張れ若者!と後ろを歩くおばさんは思い、さらに老婆心ながら目的地に着くまで捻挫でもしないだろうかと心配するのであった。(むく)

『似てる』 子どもと私は、今まで似てるといわれたことがほとんどない。父親を知らない人までも「パパ似なんだね」という。原因のひとつとして、私が純和風の一重、子どもはくっきりパッチリ二重、というのがあるのだろう。
しかし、似ている部分が現れた! 耳鼻系の構造だ。最近まで、蓄膿症の治療をしていた私。そして昨日、子どもが蓄膿症と診断された。中耳炎にもなってしまった。私も子どものころ、中耳炎やら、外耳炎やら、耳や鼻の病気ばかりしていたし、今も弱い。なにも、そんなところが、似なくても‥‥ね。
(みなりん)
2009年7月17日
『出版社』 出版社の数が4000社を割ったという新聞記事。4000社という数字自体この業界の零細ぶりを象徴しているが、ともかく不景気で出版社が減っていることは事実だ。4000社のうち活動しているのは何社あるのかと言うこともある。そして新規開業がめっきり減っている。この業界の渦中に身を置いて、さまざまに思いが巡る。(宮)

『甘さ控えめ』 最近甘さ控えめな商品が増えている。家で、アイスカフェオレを飲みたくて紙パックの1リットル容器に入ったアイスコーヒーを買うことがある。しかし最近はなんと無糖か甘さ控えめの商品しかならんでいないではないか!どうせ牛乳と割るのだから本当は甘いくらいだと丁度いいのだが、キョロキョロしてみるが見つからない。数年前まではあったのになんたること。ここ数年はメタボメタボと世間の流行語のように言われているが、全員がメタボなわけでもなし、全ての人の嗜好がかわるわけでもないわけだから(勿論人気のある商品は変わってきているだろうが)一様に甘さ控えめにする必要があるわけでもないだろうにと思う。少し前に営業で行った先でアンパンの話になった。あのパン屋は美味しいんだけどアンパンが甘さ控えめなんだよね〜。甘さ控えめのアンパンってぼくはいまいちだったな〜という。試しに帰り道買って帰る。食べてみた。あんこがあまり甘くない。うーん。やっぱり控えめ具合にも程があると思った。小豆パンじゃないか!甘くあるべきものというのはあると思う。甘さ控えめが健康のためによいという節もあるだろうが、ちゃんと消費者が選べるといいのになと思う。我慢して気に入らないアンパンを食べるより甘ーいアンパンを満足して食べる方が健康的な気がする。2種類作らなくてはいけない企業やお店の人は大変だが、どうか甘い食べ物も残してほしいものだ。毎日食べるなら甘さ控えめたまに食べるには甘いものを食べたい。疲れた時は特に甘いものが力をくれるのだから。(やぎ)

『マイケル・ジャクソン』 べつにファンというわけではなかった。と言うよりほとんど関心がなかった。ところが彼の急死により様々な映像がテレビから連日放送され、いやでも目にしているうちにすっかり魅了されてしまった。特に「スリラー」と「BAD」の完全版のプロモーション・ビデオを観てその完成度の高さに驚いてしまった。(BADなど実に16分以上あるのだ。)まるで映画のようなストーリー性、何よりダンスのキレのよさ、そして群舞の素晴らしさ。当時の若者の多くが彼のダンスを真似したのも納得出来る。キング・オブ・ポップと呼ばれるのも当然だろう。
そして今、彼の死によってひとつの時代が終わったのだなと少し寂しい気持ちでいる。
(むく)

『注文間違い』 ホットケーキが好きな子どものために、あまり甘くなくて、添加物も入ってない、ホットケーキミックスを買った。以前、母親からもらい、食べたらおいしかったので、HPで商品を探し、2種類各一袋を注文した。さらに同じお店で、麦茶一袋と、ラーメン、冷やし中華、蕎麦なども1セットずつ購入。数日後、代金引換にて届いた商品は、ダンボール3つ。私の予定では、小ダンボール一つのはずが・・・なぜ?
時間がなくて急いで注文した私は、じっくりと注文画面や値段を見ていなくて、なんと、すべて箱買いをしていたのです。現在、家には大量のホットケーキミックスやら、麦茶やら、麺類やらを備蓄状態、夏はひとまず食料に困らなさそうです。
(みなりん)
2009年7月10日
『京王線』 梅雨の真っ盛りだが、出勤途上の京王線沿線のあざやかな緑から、毎日、目をはなせない。若葉台から稲田堤のあいだ、右手に展開する丘陵地帯の緑。グーグルの地図と写真をみると車窓からみえている景色の背後にも緑地が広く続いているようで、都会にちかい場所としては、貴重な景色である。
稲田堤をすぎてから、多摩川を渡りきるまで、飽きもせず眺めている。それから新聞を読み出すのが近頃の日課となっている。。
(宮)

『夏のバーゲンセール到来』 カレンダーが7月に切り替わった新宿の街。久しぶりに仕事を早く切り上げ、夫と新宿で待ち合わせることになった。メールが携帯に届く。「今日はほしいものを買ってあげるから選んでおくように」という連絡。あのケチな夫が…何かもくろみでもあるのだろうか。少し恐くなる。あまりにすり切れたズボン3本をとっかえひっかえ履いていたのですり切れて穴があいている。さすがに貧乏くさいかなあと思い買い換えるつもりだった。ズボン(パンツというのかな)を1本買ってもらおう!と見始めるが、いやー試着までの人数を聞いておどろいた。16人待ちだというのだ。この日はセールの初日。さすがに初日はまだいいものがたくさん有るのだなと感心した。バーゲン初日に買い物に来たことなんて生まれてこの方ない私は女の人達の買い物に対するパワーに圧倒されっぱなしだった。とりあえずお目当てのものを手に試着の札をもらいながら、他の商品を物色。と、1つの商品から目が離せなくなった。あまり高いものを買ってもらうのは気がひけたが、もし買ってもらえるならコレがほしいと思った。夫に見せると一つ返事で買ってくれることに。試着もすみサイズもぴったり(?)でほっと一安心。雨でも降らなきゃいいけどと思っていたら、やはり翌日は雨だった。気がかわらないうちに買ってもらってよかった。あとは着ていく場所があるといいのだけれど。今のところあの買い物に対するもくろみはなかったようで平和な毎日を過ごしている。(やぎ)
2009年7月3日
『ウィンブルドン』 深夜、この時期毎年ウィンブルドンテニスを見ている。
年のせいで寝不足はこたえるので途中で観戦をやめたいのだが、ついズルズル引きずってしまう。個人競技なので、試合開始から中盤へと動いていく心理と動作が、見るものを引きつける。準決勝まで140をこえるエースを決めていた強豪カルロヴィチが、フェデラーにねじふせられるなど、力と技のぶつかり合いが面白い。そして、女子は今年もウィリアムズ姉妹の決勝戦になった。今年は天気がとてもよくて、折角つくったセンターコートの屋根の出番がほとんどないのも面白い。
(宮)

『どこかでだれかが…』 新刊が出たとする。さて、どこからみんな情報を得ているのだろうか。我が社は児童書も出しているから新年度のために児童書のセットなどをカタログに掲載して書店を通して学校に配ってもらっている。そのカタログに載っている商品の注文がくるのは当然としても、そこに載っていない商品が出た時に注文が来るのはどういうことだろう。新聞に広告を打つわけでもないのに。もちろんネットなどに情報が載るが、それにしても注文が早い。書店で大人気だったり、話題になっているわけでもない本でもである。本当にありがたいなあと思う。どこかで誰かが見ていてくれると思うと嬉しい。そしてちゃんと本を出したことを知り、本を買ってくれる存在がいるのはほんとうにありがたいと心から思うのであった。時代がすすみ、進化しすぎることを嫌う私だが、こんな風に情報が全国くまなく見られるネットがあることを小さな出版社としては感謝しなければいけないのかもしれない。(やぎ)

『葉桜の季節に君を想うということ』 友人に歌野晶午の本を薦められた。軽く読めるということで初めて読んだ本がこれである。文章だけの情報で自分の中で主人公像を膨らませていって、最後の最後でそれを叩き壊されるという経験を初めてした。言葉だけの情報での思い込みがいかに不確かなものであるのかを思い知らされた。作者にしてやられたという思いもあるが、ただ何故か爽快感もあり、お薦めの一冊である。(むく)
2009年6月26日
『出版業界』 このところ出版業界を対象にした記事が数回新聞の一面トップを飾った。大型書店の合併は他業種にもある現象で、もんだいの性質は理解できるが、「責任販売」となると通読して理解できる読者がどれだけいることか。出版の流通システムの概要とその問題点を知っていないと、「責任販売」導入の意味はわからないのではないか。たぶん出版業界に限らず、戦後六十数年を経た今日、いろんな分野で長年かけて作り上げられ作動しているシステムは、動脈硬化をおこし、改革を必要としているが、そもそもなにが問題なのかをつかむ事からわかりずらい。記事執筆者には、十分に研究したうえで、問題の文脈をきちっと押さえた、懇切丁寧でわかりやすい記事を希望したい。(宮)

『床は気持ちがいいなあ』 最近はすっかり蒸し暑い日々が続いているので家に帰るとドッと汗が噴き出してくる顔を洗いTシャツを着替えて床に横たわる。最近のお気に入りだ。木の床はひんやりとしていて、一日の疲れを吸い取ってくれるような丁度良いひんやり感なのだ。お風呂は温めて疲れをとるがたまにはひんやりとした感じもいいもんだなあと思う。涼をとることで人は夏を乗り切るのだ。7月・8月も、このまま床がひんやりしていることを願って…家に帰っては床に寝ころぶ私だった。(やぎ)

『女信長』 黒木メイサ主演の「女信長」という芝居を青山劇場で観た。
新聞のプレゼント欄で当たったチケットだったので早めにチケットの引き替えのため劇場に行ったのだが、もうすでにそこには100人ほどの人が並んでいた。よほど売れ行きの悪い芝居だったようで、招待券を大量に出しているのだった。
さすがに黒木メイサは21歳で主役をはるだけあって、りっぱに演じていた。だがいかんせん脚本がひどかった。信長が女だったという設定なのだが、女であることを隠すわけではなく女の色気を武器にするというのはどうも不愉快だった。脇役もイケメンを揃えれば若い女性客が入ると思っているのかというくらいの配役。中川晃教の歌が聴けただけでも儲け物だったか…。チラシがかっこよかったので期待して行ったのだが残念な芝居だった。
(むく)

『ご近所づきあい』 うちのマンションは、大通りからほそい路地にはいり、50メートルほどいった突き当たりにある。路地には昔から、その場所に住んでいる人たちの家が並ぶ。
結婚してからずっと、そこに住んでいる誰とも交流がなかったし、挨拶すらしたことがなかった。ところが子どもが生まれ、日中ベビーカーを押して歩くようになると、みんな「かわいいね」(←赤ちゃんが)といいながら話しかけてくるようになった。そうすると、自然と挨拶もするようになり、ちょっとした話もするようになった。今では、子どもの名前も覚えてもらっている。同じような経緯で、マンションの住人とも挨拶をするようになり、仲良く話をするようになった。おばあちゃんやおばちゃん、おじちゃんなどなど、年代もさまざま。東京の、隣に誰が住んでるかわからないという状態が、怖くて嫌いだったので、今こうして、子どもをきっかけに地域になじめていることが、とても嬉しい。
(みなりん)
2009年6月19日
『出張』 絵本の印刷立会いのために、甲府に行ってきた。考えてみたら、中央線で、相模湖の先までいくのは初めてだった。窓から景色に目をこらしている間に、たちまち甲府に着いてしまった。仕事は、家族的雰囲気の印刷現場できちっと済ませ、ついでに工場見学をさせてもらい、一段と進んだコンピュータ制御に感心した。帰りは高速道路を使ったバスで、景色は、往きの中央線以上に堪能したが、短い時間とはいえ、人の体型に成形された座席の窮屈なのが残念だった。(宮)

『湿度100%の女』 私は汗っかきだ。特に手足の汗は半端じゃない。子供の頃手をつなぐことになった男子にも汗でベタベタの手のひらに、嫌々小指をつままれた記憶さえある。黒い表紙の素敵なパンフレットは数秒後には指紋だらけの有様だ。犯罪なんか犯した日にはすぐに捕まること間違いなしだろう。下手すると手相の溝に汗がたまって川のようにみえることすらあるのだ。いやはや。そして最近それにプラスする現象が…雨である。なぜか休みの日に地方に行くとずーっと雨が降る。動く度においかけてきて、5月の連休には九州から連れてきた雨で、とうとう東京は雨になってしまった。私の5月の連休は見事なまでに雨に降られっぱなしだったわけだ。ちなみに先日5月の末に行った出張で一緒になったK社のSさんは晴れ女とのこと。そのお陰か雨には降られたがすべて室内にいたときのみ。移動はスーイスイだった。この場合、晴れ女対雨女の対決はどちらが勝ちなのだろうか。Sさん曰く私は干ばつ地帯に派遣されたらよいかもとくだらない話題でもりあがった。手足が常に汗ばんでいるのとなにか因果関係はあるのだろうか?まあこんな私の特技は昔は指サックなしで紙をめくれることだった。でもいまは年をとって少し水分がへり、何枚もめくると指の油分が奪われてしまい普通の人のように…残念なんだかうれしいんだか微妙だ。でも普通の人のように手がさらさらしていると嬉しくて無性に人と握手したくなる。(やぎ)
2009年6月15日
『絶叫放送』 テレビニュースで水泳競技について言ってていたが、競技中の映像から、場内の実況放送が聞こえていた。いつからあんな場内実況放送を始めたのか?あれがあると思うと、とても見に行く気がしない。古橋、橋爪が日本中を興奮させていた子どものころ、競技場での選手紹介のアナウンス(ダイチノコース、ハシズメクン)には独特の抑揚がついていておかしかったが、いまの場内実況放送は、私には邪魔なだけである。いまの世の中は、盛り上げたり、うけたり、のったりするのがはやりで、野暮天には合わない。(宮)

『木の下闇』 「このしたやみ」と読み、木が茂って木陰の暗いことの意味だそうだ。ドクダミが咲いていそうな場所のことのようだ。恥ずかしながらこういう言葉があるのを今まで知らなかった。漢字ナンクロ(パズル)をやっている時にどうしても「木下闇」としか入らない箇所があって、こういう言葉があるのかと手持ちの辞書で調べたのだが出ていなかった。
次の日の朝刊の天声人語を読んで驚いた。木の下闇(このしたやみ)とルビ付きで出ていたのだ。もうひとつ「気象記念日」という言葉が入るところもあって、こういう記念日があるのかなと疑問に思っていた。なんと同じ天声人語に気象記念日のことも出ていた。前日の夜に疑問に思った二つの事が、次の日の朝同時に解決したという不思議な偶然の話である。
(むく)
2009年6月5日
『深い森』 今朝の通勤途上での眺めは、雨にけぶって深い緑が目をひきつけた。住んでいる団地内の道は、車が入れるところと歩けるだけのところがある。場所は多摩丘陵だから団地内も斜面が多く、歩けるだけの道で上り坂のところは、しばらく手入れがされていないせいもあるのか、下から見上げると森の中に入ったように植物が繁茂している。驚くほど緑が濃い。2,3日雨が続いて梅雨まじかかとおもうが、どんな気候でも自然が楽しめる環境はすばらしい。
私にとって、寝に帰るために住んでいるような八王子だが、だから選挙や行政についてはとんと興味がわかないが、自然環境はかなり気に入っている。
(宮)

『さくらんぼの季節』 さくらんぼの季節がやってきた。くだもので何が好きかと聞かれたら私は断然さくらんぼだ。もちろん「もも」や「なし」も大好きだし、「いちご」も好きだが、さくらんぼの季節がくると買ってしまう。佐藤錦は美味しいけれど高価すぎていけない。もっと庶民の財布にも優しい値段ならいいのに。だから私はもっぱらアメリカンチェリーでがまんしている。いやいやでもこのアメリカンチェリーも捨てたものではない。肉厚のしっかりした皮をかみしめると甘酸っぱい味が口の中に広がる。このチェリーもこの季節しか見ないところを見ると、アメリカでもこの時期が旬なのだろう。甘酸っぱいさくらんぼ(本当はアメリカンチェリー…)を食べると幸せな気持になり、おもわず顔がにやけるのだった。(やぎ)

『高校のクラス会』 先日高校時代のクラス会が行われた。それも一年生の時のクラス会なのだ。普通クラス会と言えば卒業時のクラスでやるのが一般的であろう。そちらの方は20代前半でやって以来ずっと途絶えていたのが、五年前に同期会で再会したのをきっかけに毎年一回集まるようになった。毎回かなりの人数が出席し楽しいのだが、出てくるメンバーが毎回同じで少し飽きてきたところだった。今回は一年の時のクラスということで新鮮な集まりとなった。自分が一年の時に何組だったかさえ忘れている人が多い中、幹事のがんばりで12名の参加、四時間があっという間の楽しいひとときだった。
「このクラスの委員は誰だったんだろう?」という問いに誰も答えられないなか、「実は私が委員でした!」と言う女性がいたのだが、誰もが「うそ〜!」とまったく記憶にないなど笑い話もたくさん出た。今回出席出来なかった人も含めまた何年か後に会いたい仲間たちである。
(むく)

『テレビ』 教育テレビをよく見るようになった。最初は子どものお付き合いだったのだが、最近は私も楽しんでいる。自分が子どものころ、「たんけんぼくのまち」「できるかな」「おーいはに丸」などなど、教育番組が好きでよく見ていた。子どもがいなければ、また、この年になって教育番組をみることはなかったと思う。
子ども番組は、10分〜15分の番組も多く、ぎゅぎゅっと濃い内容で、それは大人が見ても面白い。子どもにはあんまりテレビを見せてはいけないという話もあるが、一緒に楽しく踊ったり歌ったり、ときに子どもより真剣に踊る母親の姿をみて大喜びの子どもを見ていると、一緒に楽しむなら、テレビだって悪くないと思うのです。
(みなりん)
2009年5月25日
『ソニック・デザイン』 ちょうど5年前にこの本の翻訳出版の話を聞いた。5年前には、まだ翻訳が終わっていなかったのだが、とにかく満5年の時間を経て、刊行にこぎつけた。アメリカ、ボストン在住の翻訳者の粘りずよい仕事ぶりと面倒な図版数百をきれいにさばいてくれた、組版担当者に助けられてイメージどおりの本が出来上がった。大著なので、手の回りきらなかった部分が無いわけではなくて、完璧というわけにはいかない。ではあるが、印刷所から見本が納品された日に、はやばやと若手ギタリストから注文がはいった。この本のこれからを暗示している感じがして、とても嬉しかった。内容は文句なくすばらしいが、担当編集者としては、本のすがた、デザインが内容とピタッとあっていて(デザイナーに感謝)・・・とこのたびは自画自賛して、ひとり喜んでいます。(宮)

『五右衛門ロック』 劇団☆新感線の昨年七月に新宿コマ劇場で行われた舞台がこのたびゲキ×シネという映像になって映画館で上演されている。
これは単なる劇場中継ではなく、15台ほどのカメラでいろんな角度から撮し臨場感あふれる作品となっている。上演時間も三時間半と舞台とまったく変わらず途中休憩もある。これがなかなか楽しかった。去年の舞台もまったく期待しないで行ったら、これぞ新感線という娯楽性に富んだ楽しい舞台だった。ただかなり後ろの席だったので役者の顔までははっきりとわからなかった。今回このゲキ×シネで汗を滴らせてがんばっている役者たちを見られて大満足である。当日券は2500円と普通の映画に比べれば高いのだが、この値段で劇場の一等席の雰囲気が味わえると思えばかなりお得だと思う。ゲキ×シネには他に「メタルマクベス」などがお薦めだ。機会があったら是非!!
(むく)
2009年5月15日
『ロシア音楽』 森田稔さんの『ロシア音楽の魅力:グリンカ・ムソルグスキー・チャイコフスキー』を読んだ。
ソ連が崩壊し、マルクス主義の呪縛から解き放たれて、ロシア音楽の捉え方、聴き方に劇的な変化があったらしい。ソ連の批評家はともかく、西側の批評家は自由な見方が出来るはずなのに、そういうものではなく、いろいろとらわれていることがあったらしい。新潮文庫の『チャイコフスキー』は間違いがたくさんあって・・などとい一文もあり、批評と時代の制約についてかんがえさせられる。
ともかく、森田さんの書いている新しいチャイコフスキー像を読むと、これまで聴いてきた音楽の印象が説明されることもあるし、まだ聴いていないたくさんの曲を聴きたくなる。
(宮)

『声をかけてくれ〜』 満員電車でよくある話。混んでいて電車を降りるのに苦労することは誰にでもあること。しかしである。ある時扉が開きひとりの女性が無言で私に体当たりして降りていった。私はなるべく降りる人に注意を払うほうなのだが、その時は全然気付かなかった。降りる人に場所をあけたりするのは社会人として当然だと思っているのに。前触れもない、なんだか悲しい体当たりだった。一言声をかけあえば、気持ちよく動けるのに…。日本人。声を掛け合う習慣はどこにいったのか。いやーな気持ちだけがなぜか心に残った朝だった。(やぎ)

『森光子の2000回』 森光子主演の「放浪記」が上演回数2000回を達成したということで連日テレビなどでかなり騒がれている。私が初めてこの舞台を観たのは大学生の頃、なんと30年以上前のことになる。同じ役者が同じ芝居をこれだけ続けるというのはすごいことなのであろう。ただ、今この舞台を観たいとは思わない。森光子自身にかなりの衰えを感じるからだ。
もちろん世間一般の89歳と比べたら、信じられないほどの若さだろう。しかしお金を取って見せる以上完璧な舞台が出来ないのであれば続けるべきではないだろう。
素晴らしい、素晴らしいと持ち上げてばかりいるのも考え物だと思う。
(むく)
2009年5月11日
『クワイア・ボーイズ』 世界のドキュメンタリーで、5回シリーズで放送された。イギリスの男子中学校に合唱団を作る話。
生徒が1200人もいる中学校に、若い音楽教師が8ヶ月の任期中に、合唱団を組織しロイアル・アルバートホールの舞台に立つまでの記録。ドキュメンタリーだから学校にカメラを持ち込み教師と生徒とのやり取りが映される。ドキュメンタリーとは言うものの、作られたものではないかと思いつつ見始めて、結局5回すべて見てしまった。教師と生徒との日常の何げない会話がとても面白かった。スポーツがさかんな学校で、歌うことの楽しさを生徒に教えるだけではなく、そもそも教会の合唱団で歌っている子どもが、そのことを恥ずかしがらずに言えるような雰囲気が学校に作り上げられていき、学校全体がアルバートホールめざして協力するようになるプロセスが描かれていく。面白い作品だった。
(宮)
2009年5月1日
『銀座セレナーデ』 好きな曲だが、歌詞が途中からわからないので、you tubeで検索してみた。そしたら、歌詞はちゃんと出てくるし、藤山一郎をはじめ多くの歌手が歌っている音声と画像がつぎつぎ出てくる。もちろん藤山一郎のほかの曲もでてくる。とりあえずの欲求は十分に満たされたし、you tube の便利な一面を実感した。(宮)

『ベランダの花』 冬に種を植えたパンジー、芽は出たもののちっとも大きくならずに心配していたがここのところでぐんぐん大きく育ち、よく見ると小さな蕾まで確認出来た。ごま粒のような種だったのに本当に植物の生命力というのはすごいものだ。土の栄養と太陽の光と水でここまで大きくなるのだと今更ながら驚かされる。去年買ったミニバラも冬の間は葉だけだったが、また蕾がいっぱい付いていて、こちらも楽しみである。これからの暖かい季節、植物だけでなく人間も元気に頑張ろうという気持になって来る。(むく)
2009年4月24日
『岩浪さん受賞記念パーティ』

『これがジャズ史だ』がミュージックペンクラブ音楽出版賞を受賞したのをお祝いして、岩浪さんの長年の友人たちが企画したパーティにいってきた。飲食しながら挨拶や演奏を聴く会なのに、立ったまま飲んでいる人がでるほどの盛会だった。臨時編成のロック・ウェーヴ・バンド(岩浪バンド)をはじめ、出席している名だたるプレーヤー、たとえば阿川泰子さんや、寺泉憲さんが、岩浪さんの所望でつぎつぎ演奏するという楽しいひとときを過ごした。出席者は年輩の人が多かったのはたしかだが、岩浪さんの日頃の行動的な生き方からか、若いプレーヤも結構出てきて、岩浪さんのつきあいの幅広さを実感した。朔北社成立の事情から、こういう集まりで私は知らない人に囲まれることになるが、初めて挨拶した厳つい顔のおじさんが、じつはルイ・アームストロング協会の会長で、ロック・ウェーヴ・バンドに飛び込んで、サッチモばりの見事な喉をきかせてくれ、これにひきこまれるように岩浪さんがスキャットで熱演、最高潮に盛り上がったところで閉会になるというおわりかた。堪能しました。(宮)


『駅路』

 

今年は松本清張の生誕100年記念の年なんだそうで、ドラマや映画は松本清張作品の目白押しらしい。
先日フジテレビのドラマで「駅路」を観た。松本清張原作、向田邦子脚本、杉田成道(あの「北の国から」の)脚色・演出、そして主演は役所広司、深津絵里という豪華な顔ぶれだった。これだけのメンバーが揃っただけあって、テレビドラマとは思えないほどの素晴らしい出来だった。時代をちょうど昭和天皇の亡くなる前の何日間かに変えてあり、それがまた人生の終着駅を考える人間と昭和という時代が今まさに終わろうとしている時を重ねてなんとも言えない雰囲気を出していた。それから愛人が化粧品のセールスウーマンになりすまして家に上がり込み、本妻の顔をマッサージするという壮絶な場面は原作にはないそうで、これぞ向田邦子の脚本と思わせる場面だった。松本清張は若い頃にはよく読んだが最近はすっかり遠ざかってしまっている。生誕100年ということもあるのでまた少し読んでみようかと思っている。
(むく)

2009年4月17日
『桜』

開花が発表されてから、八王子でいえば真冬なみの寒さがきてなかなか咲かなかったのが、今度は夏日
といわれるほど気温があがって、一気に満開になり、暑さの中でたちまち散ってしまったのが、今年の桜だった。桜をさかいに、あたりの景色はすっかり春になって、明るい空気のなかで新芽が出始めた。毎年のことだが、通勤の道すがら、心躍る季節をすこしは味わう。時間によっては、南大沢では、そんななかで、うぐいすが啼く。まいにち変わっていく景色をみるのが、ささやかな楽しみなのに駅前の通りと立体交差しているニュータウン通りのいちょうがひどい姿になっていた。十余年らいいちょうの成長をみてきて、駅前通りの上たかく背がのびたのに、木の先端はもとより枝が徹底的に剪定されてしまった。まもなく新芽が出始めるだろうが、今年はみすぼらしい姿をみることになるだろう。
(宮)


『伏姫桜』

 

千葉県市川市の真間山弘法寺にある枝垂れ桜の名前である。なんと樹齢400年というみごとな桜なのだ。小学校4年から13年間市川市に住んでいたのだが、当時はそんな桜の存在などまったく知らなかった。まあ子供はあまり桜には興味はないものだが。三年程前に友人に誘われて初めて観に行った。その美しさは長い時を生きてきた威厳さえも感じさせる素晴らしさだ。そしてその「伏姫」という名前もなんともいい響きだ。ご存じの方はピンと来るだろうが「里見八犬伝」に出て来るお姫さまの名前だ。スーパー歌舞伎の「八犬伝」を観て以来八犬伝が大好きになった私にとってはまた感慨深い。三月の終わりに今年もまた「伏姫さま」に会いに行って来た。ソメイヨシノよりも早く満開になるので、そこだけが際だって、まるで異空間のようであった。(むく)

2009年4月3日
『ミュージックペンクラブ賞の授賞式』

 

3月30日、池袋の芸術劇場でおこなわれた、2009年ミュージックペンクラブ賞授賞式に行ってきた。
受賞者のなかにポピュラー部門パフォーマンス賞の沢田研二さんや93歳で現役のチェロ奏者青木十良さんがいた。「ひとこと、どうぞ」とうながされての受賞者の言葉は、中会議室のこじんまりした参列者をまえに、気取らない、そっちょくな喜びの気持があふれていて、とても気持のよいものだった。そして岩浪さんは会場に笑いの渦をつくりだしながら、喜びのあふれたあいさつをされた。
(宮)


『漢字ナンクロ』

 

すこし前まで数独とか数字ナンクロとか呼ばれるいう数字のパズルにはまっていた。
縦横9列づつと中の小さなブロック9個に1から9までの数字がどこにもだぶらずに入らなければならないというパズルだ。簡単な物はサクサクとすぐに出来て、それはそれで楽しいのだが、かなりの時間をかけてやっと出来た時の達成感もまたいいものである。少し飽きてきたので今度は漢字ナンクロというパズルに挑戦している。漢字だけのクロスワードパズルだと思っていただければいいだろう。最初から書いてある漢字をヒントに空いているところに漢字を入れていくのだ。空いているマスには隅に数字が入れてあり、同じ数字のマスには同じ漢字が入るというわけだ。二字熟語、三字熟語、四字熟語その他に固有名詞、音読みだけでなく訓読みもと持てる知識を総動員しなければなかなか完成しない。自分の頭の中の知識だけではとうてい足りないので傍らに国語辞典と漢和辞典を置いての大仕事だ。そうして苦労してやっと出来た時の気分は最高!日に日に堅くなっていく脳のトレーニングも兼ねて、しばらくは漢字ナンクロ三昧になりそうだ。
(むく)

2009年3月27日
『罵詈讒謗』

大阪府の橋下知事が、国の直轄事業にたいする自治体の財政負担にからんで、国土交通省のことを激しく批判し、「詐欺師集団」とののしった。次々に過激な言動を繰り出して、マスコミの注目を集める、橋下発言の最新ヴァージョン。香川県の公共事業に端を発する問題で、これは国土交通省のやり方がひどいと思うが、問題点を指摘し改善を求めるのに、普通のものの言い方ではマスコミはすこしも興味を示さず、したがって政府も無視して終わるのでセンセーショナルな言い方をする。知事のあのような発言がすでに常態化している。その効果のほどは理解できるが、聞き苦しい言葉であることも実感する。冷静な、普通の討論、対話によってものごとが決められればいいが、とても現実のことにはなりそうもない。(宮)


『久しぶりに…』

 

義父が倒れてから一年。意識が戻らなくなってから9ヶ月がたとうとしている。去年末から、義弟が介護休暇を取ってくれてたので帰省する頻度が減って家計にも少し余裕ができたので久々に何冊か本を買った。私はこの仕事についてからある周期で一文字も活字を読みたくなくなることがある。本は基本買って読むのもと思っているので(人に借りると気を使うので…)家の経済上の理由からしばらく本を買えずにいた。しかし人間本が読めなくなると逆にものすごく読みたくなってくるものなのだろうか。無性に本が読みたい自分がいた。仕方なく過去に買った自分の本を棚から物色して再読である。引っ越しするときにいらないと判断したものは古本屋に売ったり、捨てたりしているので、残っている本はそれなりに再読したいと思っているものばかりである。今興味があるのは子ども向けのお金の本だ。お金に興味がないひとは世の中いないだろうと思う。おおかれすくなかれ、いろんな意味で世の中でお金なしには生きていけないのだから。理論社からでている「よりみちパン!セ」の西原理恵子さんの本もあるし、手元に本がないので著者がいますぐ出てこないのだが「お金もうけは悪いこと?」という講談社の本もなかなか面白かった。好きなときに好きな場所で本が読めるのはなんて自由なのだろう。これからも本が買えるように頑張って働こうと心に決めたのであった。ちなみに先週末には初めて絵本を義父の枕元に持ち込み耳元で3冊読んでみた。むむっ。その表情。もしかして聞いているかも?!目が覚めることを願いつつ病室を後にした私だった。(やぎ)

2009年3月19日
『ジェラルド・カーティスの政治評論』

3月12日の朝日新聞にジェラルド・カーティスの「違法献金事件 検察には説明責任がある」が掲載された。連日ニュースを賑わせている民主党小沢代表の公設秘書の逮捕と、建設業界と政治家の腐敗構造にかかわる事件について論じている。この事件で、ひとりひとりの国民にとって、マスコミにとって、政治家にとって、何がもっとも重要なことなのか、考えるべきことは何かという観点から、的確な指摘をしている(と私は思う)。日本の議会制民主主義にとって今回の事件の持つ意味の核心をついていると思った。長年にわたる日本政治の観察者として、ジェラルド・カーティスの存在の大切さを改めて認識した。政治記者、政治評論家はあまた存在するけれど、穏健な常識的立場に立って、問題の勘所をきちっと指摘してくれるのは、ジェラルド・カーティスだ。われわれに、言論活動の意味を考えさせる記事であった。(宮)


『ほぼ日刊イトイ新聞』

 

糸井重里さんのHPの中にある「気まぐれカメら」というコーナーに毎日癒されている。
これはだいたいが糸井さんの飼い犬ブイヨンの写真と短い文章からなっているのだが、犬の表情のかわいさと文章の面白さで毎日見るのが楽しみである。文章は飼い主(人間のお父さん)の目線のものと、犬の気持で書かれたものとがある。この犬の気持の文章は架空の本からの引用ということになっており、文の最後に『ブイヨンの気持ち(未刊)より』と添えられている。もちろん「遊び」で読んでいる人も「遊び」と理解していたわけなのだが、なんとその本が本当に出来てしまったというのだ。読者の本当にそんな本があればいいのにという熱い思いから出来たらしい。HPの中にあるブイヨンショップから注文が出来るようになっているのだが、そうとうの売れ行きらしい。(うらやましい!!)…そして私もさっそく注文してしまったのだった。
(むく)

2009年3月13日
『花粉症』

毎年のことで、いまさらとおもうが、今日の花粉状況はすごかった。はなをかんでいる時間が生きてる時間といえるほど症状がひどく、ティッシュの消費量もたいへんなもので、昼ごろには、夕方まで足りそうもないと、あわてて買いにいった。わきから見たら、こっけいとしかいいようがない状況だが、そんなことをいっているどころでないぐらい、苦しい。ところが、とちゅう来客があり喋ったのがよかったのか、夕方には少し楽になった。花粉症に一日中ふりまわされている。しかし、こんなに苦しんでいるのに、症状の個人差が大きくて、今日は昨日より楽だというひとがいる。気候はすっかり春めいてきているから、これから先がおもいやられる。(宮)


『アヒルと鴨のコインロッカー』

この伊坂幸太郎の小説を読んで、読者の多くは最後の展開に驚ろかされたに違いない。私もこれぞ活字世界ならではの醍醐味だと拍手を送りたい気持になった。これは映画には絶対出来ない作品だと思っていたのだが、昨年あっさりと映画化された。先日やっと観ることが出来たのだが、やはりからくりを知っている状態で観ると映画の楽しみは半減する。自分の頭の中の世界を映像で順を追って確認するといった具合だ。
原作を読まずに観たら楽しめたかもしれない。ただ映画を先に観たら原作を読む気にはなれないかもしれない。「チーム・バチスタの栄光」「容疑者Xの献身」どれももう映像だけで満足してしまい原作には手が出ないでいる。そして今回伊坂幸太郎の「フィッシュストーリー」が映画化された。読んでから観るか、観てから読むか、悩みどころだ。
(むく)


『春なのね』

 

夕飯の準備をする時間がない時の定番は鍋。野菜もたっぷりとれるし、お肉や魚もはいっていて、うどんを入れれば、ご飯を炊かなくても大丈夫。……ということで、先日、丸一日忙しかったので、夕飯は鍋にしようと買い物に出かけた。うちに残ってる「鍋の素」ひとつじゃ足りないので、同じ種類のものをもうひとつ買おうと思ったのだが、置いてない。「商品の入れ替わりが早すぎるよ」とぶつぶつ言いつつ、棚を見回すと、一時期10種類以上もあった鍋の素が、二つしかない。それも、棚の上のほうに追いやられてる。そこで初めて気がついた。世間はもう鍋の季節じゃない、冬は終わりなのだ。よくよくみると、売り場のあちこち春の装い。お客さんも春のコートを着てる人が多い。でも、その日は北風がぴゅーぴゅーで寒かった。肌で感じる季節は間違いなく冬。「季節先取りじゃなくてもいいや」と親子で冬のコートをきて、鍋の材料買って、家に帰ったのでした。(みなりん)

2009年3月6日
『大雪』

3日、大雪情報が伝えられて、今年はじめての雪景色が見られると楽しみにしていた。じっさい夜遅い時間に帰宅したときに、南大沢はうっすらと雪化粧していて、翌朝が楽しみだと思いつつ滑りそうな足元に気をつけながら歩いた。ところが翌日、戸外の景色眺めたら、雪はあとかたもなく消えていた。久しぶりにゴム長靴をはかざるをえないなもしれないと、期待半分で思っていたが、まったく外れてしまった。例年、2月すえから3月にかけて雪が降りやすいと思うが、暖冬が続いている状況で、今年はこれからさき、どうか。(宮)


『営業の熱い日々』

事務的な仕事をしているとふと会社に張り付いている自分がいる。1週間とか2週間とかずーっと会社でもくもくと働く。外部の人とかかわるでもなく淡々と日々は過ぎる。そんな日々を過ごしていると突然スイッチが入り外に出たくなるときがある。人と会い、話をするのは楽しいし、私の中の何かを刺激してくれる。その一方で人と会っていろんな話をしたあとは色んな刺激がありすぎてエネルギーが燃えては時折自分のなかの蓄えを使い果たしてそのあとぐったりしてしまうこともある。昨日まで静岡・名古屋と出張に行ってきた。その中で思うのは情熱を持って自分らしく働いている人は年齢に関係なくまぶしいなということだ。そのパワーを受け取りつつ今日も感動しながら働けることを感謝の思いで一杯になって帰ってきた。一緒に同行してくださったK社のYさん、出張先で対応してくださった皆様ありがとうございました。私もパワーをもらって今日からもがんばります。(やぎ)


『花の種』

あるイベントで花の種(パンジー)を貰った。さっそく土を買ってきてベランダのプランターに播いてみた。芽が出るまでは毎日水やりをするようにとの注意書きがあったので、忘れずせっせと水やりをした。しかしいつになっても芽が出て来ない。やはりただで貰った物はだめなのかとも思ったが、そこではたと気が付いた。花の種類によって播く時期が決まっていることを…。まったく何も考えもせずさっさと播いてしまったがこんな寒い時期に播くのが間違っていたのかと諦めかけた頃、なんと芽が出たのだ。ほんの2ミリほどのかわいい芽が!なんとも小さくてかわいらしい。いつもずぼらで植物を枯らしてしまっている私だが、今回こそ花が咲くまできちんと世話をしようと思っている。花が咲いたらまた御報告します!!(むく)


『育児日誌』

 

子どもが生まれてから、毎日欠かすことなく、「育児日誌」をつけている。
一日一ページ、0時から24時まで時間ごとに、一日の出来事、授乳や食事の内容、尿や便のことなどなど、「日記」というよりは、タイトル通り「日誌」という感じだ。出産後の入院中、看護婦さんがチェックするため、授乳頻度や尿・便の状態な病院でつけていたのが始まりなのだが、退院後もしばらくは、何かあったときのために、継続してノートにつけていた。それがいつの間にか日課となり、今日まで続いているのだ。「こんなことをしてかわいい」とか、「こんなしぐさが愛しい」とか、そういうことはあまり書いていなくて、「全然眠ってくれない、私も眠れない」「こんなことがあってすごく大変だった」「あんなことがあって疲れた、ぐったり」等々、愚痴がたっぷり。いつか、これをみた我が子はどう思うのか。「わたしのことかわいくなかったの?」って思うかもしれない。でも、必死に子育てしてきた、その日その時の本当の記録。子どもの成長を撮った写真やビデオもずっと残る大切な宝物だけれど、手書きでせっせと書いたこのノートはそれ以上に私にとってはかけがえのない宝物。
(みなりん)

2009年2月27日
『竹内好』

図書館から順次借り出して、全集を読んでいる。竹内さんは生涯、中国研究、とりわけ魯迅を研究した。長い期間ずっと観察していたわけだが、日本と中国の関係を考えれば、単純な観察ではすまないことになる。きわめて面白く、日中関係を考えるときに必ず顧られるべき人だとおもった。しかし、改革開放政策をとることになって以来の中国の変貌を、竹内さんは知らないわけで、いまの中国についての意見を聞きたかったとおもう。ともかくいまは、あれこれ考えながら、1巻づつ読み続けようと思う。(宮)


『猿三郎さんのブログ』

歌舞伎役者市川猿三郎さんのブログがおもしろい。毎日更新されているのにいつも内容が濃い。芝居の話や楽屋裏の話はもちろんのことオフの日の旅行や観劇の話などバラエティに富んでいる。先日などキンキキッズの堂本光一くんの舞台『ショック』を観てこられたようで、その興奮ぶりが伝わってくる内容だった。そしてその少し後には一日中ディズニーランドで夢の国を満喫した様子。何に対しても好奇心旺盛な姿勢が役者の仕事にも生きているのだろう。主役をやられることはないが、これからもぴりっと脇を締めていただきたいと願っている。(むく)

2009年2月20日
『名前』

ものを売るために名前をつける。ひとごとではなくて、本をうるために書名の大切なことは、日ごろ身にしみて感じている。オリンピックでもマスコットをつくり、名前をつける。バンクーバー2010オリンピックではミーガ、クワッチ、スーミに決まったそうだ。しばらくまえ、ニュースで話題にされた「せんとくん」なんていうのもあった。ネーミングはほんとに難しい。花粉症の季節になるといろいろな商品がでてくる。この時期、かなり重症なのでティッシュペーパーをてばなせない。ひんぱんに使うので、いつも使っているのではなく、やわらかい感触のものをつかいたい。でも「鼻セレブ」なんていうなまえでは、手にするのもはばかられます。(宮)


『緊張しないようになりたいなあ』

私は小心ものだなあと思う。慣れた人には大口たたくわりに、初めての人や沢山の人を前にすると頭の中が真っ白になり、なにも浮かんでこなくなる。あげくのはて何言ってるの?というようなことを口走ってしまうことがよくあるのだ。いい年になったのにこれではなあとため息が出る。もうすぐ新学期の営業で地方にでかけることになる。度胸を決めてしっかり伝えるべきことを伝えられるように練習しておかなければ…卒業式のシーズンが懐かしいなあ。あの時も「在校生の皆さん〜」とか大きな声で話すことを練習したっけ。(やぎ)


『子どもと居酒屋』

 

先日友人と地元の居酒屋に立ち寄った。チェーン店ではなく、ちょっとおしゃれで料理もまあまあの店である。まだ早い時間だったので他に客はなくカウンター席に案内された。しばらくすると幼稚園児くらいの子供を連れた家族がちらほらと集まり出した。そのうちに子供の数は全部で20人くらいになり、その両親とで他の席は埋め尽くされたのだった。さながら幼稚園の休み時間状態の騒がしさで、子供と親の席は分けてあるので注意する親もいない。子供嫌いというわけではないが、これにはまいった。子供連れの宴会がしたいのであれば貸し切りに出来る店か個室のある店を探すべきだろう。店の方もこちらが入店した時に「これから子供連れの団体が入っていますがそれでもかまいませんか?」と一言言ってくれればよかったのだ。基本的には子供をお酒を飲む席に連れてくるのは反対だ。でも今の時代そうも言っていられないだろう。ただもう少し利用する方も店側も配慮が欲しいものだ。(むく)

2009年2月13日
『街の風景』

ときどき行く餃子屋は小さな建物の2階にある。店の中は中央に8人ほどのテーブルと建物の角の窓に沿って作られたカウンター席。一人で行けばカウンター席にすわる。たべものが出てくるまで窓の外をみる。歩道を行き来するひとびとを、ぼんやりと眺めている。さまざまな年齢のひとがさまざまな服装をしている。2階だから、頭がよく見えるが、ちかごろ帽子をかぶったひとが多い。気にもせず通り過ぎていたビルの看板を目にして、あらためて「そうだったのか」と合点する。突然、「世界ふれあい街歩き」の一場面を思い出したりする。けっこう楽しいひと時です。(宮)


『人相学』

小学生くらいの頃だったろうか、近所に人相学の勉強をしているというおじさんがいた。
何の用事だったかは覚えていないが、その人がうちに来た時、私の顔を見るなり「素晴らしい人相をしている!こんないい人相はめったにない!」と絶賛されたのだ。どうやら団子っ鼻がよかったらしい。(笑)あまりに褒められるので子供心に自分には素晴らしい未来が開けているような気がしてちょっぴり期待していた。ただ元来楽な方、楽な方へと流され努力をしない性格なためか、今現在別にどうと言うことのない平凡な人生を送っている。それでも昨今、いじめによる自殺やらパワハラにより精神的な病気になったなどの話を聞くと今まで自分の出会って来た人たちはみな優しさと愛情を与えてくれたのだなと思う。人から憎まれたり恨まれたりしないだけでも(鈍感なので気が付いていないだけかも知れないが)団子っ鼻のおかげなのかも知れない。
(むく)

2009年2月6日
『取材源』

 

醜悪な事件が続発し、それをセンセーショナルに伝えるマスコミが跋扈している。ニュースにたいして、日頃から取り上げるテーマや、つたえかたに不満がたまっていた。そんななかで、さいきん、NHKのニュースを聞いていて気づいた。ある事件の続報を伝えているのだが、「警視庁の取材によると」とはじめに断ってから話し出した。この伝え方は一度きりのものではなく、何度か出会った。これは以前にはなかったことで、出所をはっきりさせないままのニュースを批判的に聞いていたので、一歩前進したとおもった。些細なことでも長年のやりかたを改めるのには、大きなエネルギーがいるはずで、よくできたものだ。(宮)


『ちいさいおうち』

新聞の「絵本の記憶」というコーナーに『ちいさいおうち』(バージニア・リー・バートン、岩波書店)の絵本が紹介されていた。ああ、そうだったのか、この本が原作だったのかとこの年になって初めて知ったのだが、私にとって『ちいさいおうち』はディズニーのアニメを絵本にした物なのだ。たぶん幼稚園に行っている頃だと思うのだが、毎月一冊ディズニーアニメの絵本が本屋さんから届くようになっていた。もうそれはそれは楽しみで、本棚にずらっと並んだ絵本は宝物だった。その中に一冊が『ちいさいおうち』だった。『白雪姫』や『シンデレラ』ほどメジャーではないが何故かお気に入りの一冊だった。アニメ自体は見たのか見ていないのかはっきり覚えていないが、その絵本の絵は今でも頭の中で鮮明に輝いている。もう一度実物を手にして子供の頃の感動を思い出してみたいものだ。(むく)

2009年1月30日
『髪型』

夜遅い時間のBSニュースを見ることが多いが、さいきん気がついたことは、ニュースをよむ若いキャスター(?)のほとんどが髪の毛で額を隠すような髪型だ。これは男女をとわない。隠したいというわけでしている髪型ではないのだろうと思うが・・・・。とにかくそう思って思い返すと過去にも1960年代の長髪以来さまざまな変遷がある。ちかごろの、額を隠すような髪型では、たとえば大阪府の橋下知事などはその最たるものだ。ファッションということなのか。(宮)


『その身にならないと気づかないこと』

 

自分がしてみたり、されたりしないとわからないことって本当に沢山ある。それにその感じ方だって一人としてまったく同じなんてありえないだろう。ある日電車に乗っていたら小さなお婆さんが具合悪そうにしていた。いまにも倒れそうだ。大丈夫かなと思いながら凝視していると(あまりに見すぎだとよく夫に言われる)今度はハンカチを口にあててうつむいている。朝のラッシュの電車の中大丈夫なのだろうか。つい声をかけてみる。「大丈夫ですか」と言うと小さな声で一言「あの人の上着の帽子のフワフワが目に入ってつらい」とのことでうつむいていたらしい。確かに。そのフードのフワフワした毛の部分が見事に小さなお婆さんの目の位置にあたるのだった。迷惑をかけていないつもりでも人は知らずに迷惑をかけているのだなと思った瞬間だった。どちらにしてもこんな込んだ電車に乗ること自体があまり精神的によくない気もする。密着してなければおこらないことなんだから…。そういえば私も電車でさらさらヘアーの女の人に肩の向こう側に髪の毛をファサーっとやられたとき顔がムチうたれたようにいたかった経験があるなあと思い出した。普段はカッコイイ素敵な行為でも込んだ電車の中では凶器となりうるのだ。不可抗力、その気はないにしても少しは考えて電車に乗らなければなあと思った出来事であった。(やぎ)


『おはようお帰り』

先日新聞の読者欄に「自分の夫は京都出身なので、こちらが出かける時には、おはようお帰りと声を掛けてくれる」という投稿があった。そうそう、子供の頃大阪の祖父母は「行って来ます」と言うと「行ってらっしゃい」ではなく「おはようお帰り」と言ってくれたととても懐かしい気持になった。なんだかとても愛情のこもったやさしい言葉だなと思う。関東の人は関西弁はきついというイメージなのかもしれないが、私にはほんわか、とかのんびりといったイメージだ。「こんな事をしては駄目だよ」は「こんな事したらあかんよ〜」となり、他人からひどい言い方をされた事を人に話す時でさえ「こんな事言わはったんやで〜」となるわけである。ずいぶん久しく大阪には帰っていないので、大阪弁にどっぷり浸かりに行ってみたいものだ。(むく)


『おしゃべり』

 

子どもが一生懸命何かをしゃべったり、訴えかけたりしてくるのだが、ちっともわかってあげられない毎日。
まだちゃんとした言葉を発するわけではないので、「おおおにょにょりょばはにょだばあ」的な感じなのだが、例えば、何かを指差し話しかけてくる。「これ?」「これ?」と言いながら、いろいろ渡すのだが、どれも違う。そのうち、伝わらないのが歯がゆくて、泣きだす。それでもまだわからない私に、さらに大きな泣き声をあげ
て、アピールするが、結局わからずじまい。逆に、子どもは私の言うことをかなり理解している様子なので、「あたちはあなたの言葉がわかるのに、何であたちの言葉をあなたは理解できないの?」と思われていそうだ。
(みなりん)

2009年1月23日
『オバマ大統領』

 

日本時間で1月21日午前1時半から、オバマ大統領の就任式がテレビ中継された。
アメリカの大統領就任式を生中継で見るのは初めてだ。なにより印象的だったのは、就任式がおこなわれる議事堂前から、そのあたり一帯を埋め尽くした大群衆の姿である。トラブルがあってデモ隊や暴徒が集合しているのではなく、アメリカ史上初めての黒人大統領の就任式という歴史的瞬間を、わがこととして共有したいという、熱い思いの大群衆が集まっている。生中継の映像で伝えられてくる人々の喜びに溢れた顔、そしてその人数の多いことは、これまであまり見たことのない光景だった。それから新大統領の歴史をふまえ、抑制のきいた就任演説。羨ましいというのが率直な感想だった。
(宮)


『人を惹きつける力』

 

日本に人を惹きつける政治家がどのくらいいるだろうか?私はこれまでの人生で人を惹きつける人に何人くらい出会えているだろうか?学校の先生、ミュージシャン、友人たち。人は様々な役割を持って生きている。上に立ちたいと多くの人が思っているだろうか?とくに男の人にその傾向は強いように思う。人の上に立って何をするつもりだろうか?目的は人の上にたつことなのか?よくよく考えなければいけない気がする。二番目にいて力を発揮する、一番下にいて力を発揮する人もいるんだと思う。私はどちらかというと後者だと思う。人を率いていく力がある人は日本の人口のうち一握りくらいなのではないだろうか。自分のポジションを見つけられる人は幸せな人だと思う。その位置は、見た目は上であれ下であれ平等なんだと思う。大統領が偉くて、ガードマンが偉くないとだれが決めたのだろうか。上下関係でびくびく生きるなんておかしな話だ。アメリカにオバマという大統領が誕生した。アメリカでは多くの民衆が集まり、その言葉にその姿を見に集まった。オバマもしかり、民衆もしかり、こんな不況のさなかだが、なにか人々の中にある熱いものがテレビの画像を通して私にも伝わって来て目が離せなくなった。人を惹きつける求心力、言葉、行動のある人が国をリードしていく。そんな国に日本もなったらいいなあと心から思った。がんばれ日本!(やぎ)


『シャイン・ア・ライト』

 

友人に誘われてローリング・ストーンズのドキュメンタリー映画を観て来た。ビートルズの曲ならほとんどわかるが、ローリング・ストーンズとなるとまったく自信がない。それでもかなり聞き覚えのある曲があるだろうと思ってはいたのだが、やはり知っていたのは2、3曲。つくづく私の青春時代にストーンズは影響していなかったのだなと思った。
そんな私でも60歳を越えているにもかかわらず衰えを知らないパワフルなステージには感動した。ミック・ジャガーだけでなく四人全員が(一人は亡くなったそうだが)スリムでかっこいいのだ。顔にこそ深い皺が刻まれているが、体全体から発せられる力強さは若い人にまったく負けていなかった。すごい!としか言いようがない。パワーをたくさん貰えた映画だった。
(むく)

2009年1月16日
『乱世の再来』

昨秋から世界の経済状況が激変して、9.11いらいのきな臭い国際政治の動きと相まって1930年代に似た乱世が眼前に現れた。乱世には乱世の見方、生き方があると思うが、一人一人の判断力と行動が試されるときでもある。
インターネットで、88歳になる伊豆利彦さんの年頭の長大な所感を読むと、世界の深刻な状況に対する危機感だけでなく、乱世にある自由な行動領域に胸躍らせていると感得できるところがあっておもしろかった。年末ぎりぎりの日比谷公園の「派遣村」など、これまでになかった新しい動きが次々に起こりそうだ。そして、このような外部世界のこととはべつに、たとえば仕事をめぐって、自分自身が何を見、どう考え、行動するのか?
(宮)


『事件とセキュリティ問題』

 

最近神保町にほど近い大学で殺人事件があった。事件があると、そのあと、セキュリティ問題が…という問題が持ち上がることが多い。だけど、大切なのはセキュリティが万全なことなのだろうか?という疑問が残る。どこかで何かの目にさらされた生活をしなければ、私達の安全は守られないのだろうか?それよりも自分だけ、自分さえよければという今の日本がかわらなければいけないんだろうと思う。人とぶつかってもなにごともなかったように振る舞う人、見えているはずなのに自分は見られていない、向き合われていないと感じることがよくある。なにかあった時にちゃんと嫌がらず向き合ってくれる人がいるというのは心強いものだと思う。そうやって向き合っているうちに少しでも日本は変わってこないだろうか?そして最近のニュースが語る、その犯人の心の闇は…という決まり文句。人間は成長していく過程で何かしら心にためて生きているものだと思う。心には晴れもあれば曇りもあり、闇だって誰しも持っているのではないだろうか。使われ始めた当初はあまり気にもしていなかったが、乱用されるに従って、物事の本質ではないような気がしている。(やぎ)


『新年のご挨拶』

明けましておめでとうございます!今年もどうぞよろしくお願い致します。
今年もむくのたわごとをお読みいただければ幸いです。
さて私事ではありますが、年末ジャンボ宝くじはかすりもしませんでしたがビールのキャンペーンで「なだ万」のペア食事券が当たりました!新年早々縁起がいいかも〜
(むく)


『マンガ』

私は昔から子育てマンガが大好きで、よく買っていた。なぜ、好きなのか?と聞かれても、自分自身「???」なのだが、大好きだった。子どもを産んでからは、「そうなの、そうなの」と共感することも多く、前にもまして買うようになった。なんかおもしろそうなのないかなぁとインターネットで検索したりして、日々、情報収集している。そんな中で、ひとつの子育てマンガのタイトルが目に飛び込んできた。それは、15年近く前に大好きだった子育てマンガの続編だった。紹介文を読むと、そのとき小さかった男の子(兄)と女の子(妹)の兄弟は、なんと髭を生やした20歳の男子とギャル風の女子高生になってという。私は思わず目を細めてしまった。あの小さかった二人が‥‥、あの手に負えない怪獣のようだった子たちが‥‥、あんなことも、こんなこともあったのに、もう立派に大人なんだね〜。‥‥え〜、私はただの一読者である。
私の子どもは、今一歳4か月。私と子どもににかかわってくれている人たちは、この子が20歳になったとき、きっと目を細めてくれるのだろう。
19年後、20歳のこの子はどんな子に育っているんだろう?責任重大だなぁ、あと19年かぁ。子育て、まだまだ始まったばかりだ、道のりは長いのう。
(みなりん)