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「王様の耳はロバの耳」(2022)
 
   
2022年12月23日
『世論調査の回収率』  新聞社・放送局の世論調査が毎週発表される。NHKのばあいは、「RDDという方法で調査して、〇〇%回収された」という前置きがある。そして回収率はほとんど50%台である。RDDというのは無作為抽出された電話番号に電話して尋ねる方式だそうだが、50%台の回収率で信頼性はどのくらいあるのだろうか。統計学の本を読むと、もろもろの前提条件はあるだろうが、回答の差が数%の場合には、誤差の範囲内で実質的な差はないと書かれていたと思う。例えば内閣支持率が5%上がった下がったと一喜一憂するのは統計学的には意味のない解釈ということになる。ましてRDDで回収率は半分という世論調査は、どの程度意味のある調査と言えるのだろうか。こうした問題を、ときにはきちっと説明してもらいたいものだ。世論調査結果の微妙な数値の差が政策決定の根拠として、政策の解釈の根拠としてしばしば利用されるので、結果の有意味性の程度を知りたいと思う。
 とはいえ、支持率が30%台で、不支持率が70%台という結果が出ていれば、世論の大まかな動向は明らかだとは言えるだろう。
(宮)
   
 
『今、そして未来を思う』   今年もあと少しで終わる。去年はいろいろなことがあった。その中で今一番の心配事は、この国のことだ。私が心配したところでなにかが変わるわけではないかもしれないが、ぼーっとただ傍観しててはいけないなと、強く強く思っている。
決めなきゃいけないことは決まらず、そんなことを今決めるのかということがいつの間にやら決定し、そんな社会嫌だなぁと思う社会になってしまっている。もちろん個々人に目を向けてみると、色んな人たちの色んな努力の跡が見える。なのに肝心の政治がなんとも頼りないどころか、恐ろしささえ感じるのだ。国のリーダーについていきたいと思えない。今までだってそう意識したことはなかったが、今なら、はっきりと「ついていかない」と言うだろう。ここ何年もの間にどんどん国が退化していっていないだろうか。

本物の政治家不在の中、おかしなシステムが構築されている。マイナンバーカード然り、作っておきながら責任を一切利用者側に押し付けるシステム「マイナポータル」然りだ。その規約を読むと空恐ろしくなる(一度目を通してみることをお勧めする https://img.myna.go.jp/html/riyoukiyaku_ja.html)。またそれに登録したあと利用者は政府が自由に規約を変更することにも同意することになるという。その項目の1つを抜き取ってみるとこうある。【アカウント登録に当たりシステム利用者が内閣総理大臣に対して同意する事項】もうこの規約の言い回しだけで嫌な気持ちになってしまった。

国は民間になってはいけない。民間は売上のために働くが国は民間の企業のようになってしまっては平等性が失われるし、おまけをつけるからこれやってと国民を動かしてはならないと思う。本当に必要と思うことであれば全員にやってもらえばいい。便利だからという事で何でもしていいのとは違う(便利は後からついてくるならいいが)。マイナンバーカードのようなものがあることは身分証明証としてだめとは思わないし、それを元に役所で一連のことが分かるという内部構築はあったらよいと思う。しかし外部から個々に管理するようなシステムが必要かなと思う。せめて内部で連携を取るのが先で、それがきちんとできてから、その先を考えればよいのではないだろうか。
なんでもネット化することはいいことだろうか?電気がなければ何もできなくなってしまう。パソコンやスマートフォンありきの世の中。それを持つこともできないくらい貧困に苦しむ人がいることを想像すらできないのだろうなと思う。きっと全てどうしようもないくらい最終段階にならないと国は気づかないかもしれない。そうなってもなお、自分たちを肯定するだろうか?トップの人たちは…。必死に生きなければ生きられない生きづらさがそこかしこにあり、救急車はひっきりなしに走り、電車は人身事故で止まってしまうことも時々ではない。今、日本は豊かな国だろうか?私はこの現状をなんとかして止めたい。だけど出来ることはなんだろう。でも諦めたらそこで終わりだ。個人でも家族でも、または友人、知人たちとどうしたらいいのか本気になって考える先に、今よりは少しだけでもいい未来を残せないだろうか?。
(やぎ)
   
 
『2022年終わりに』  本当に驚くほど、あっという間に一年が経ってしまいました。今年は、生きるということについて、ずいぶんと考えた年でした。身近なことでも世界をみても、生きることや死について思いを巡らせてばかりいたように思います。
 戦争が始まり今もまだ続いていて、世界平和という言葉が虚しく感じるもどかしさ。こんなに大量の武器をみんなで持ちあっていて、安寧な世がおとずれるなどと、みんな本気で思っているのでしょうか。わたしは理解ができずにいます。
 日本では、金と欲にまみれた情けない事件ばかり。富とは、名声とは、欲望とは、こんなにも人を狂わせるものなのだな…、どんな世の中にしたくて、政治家になったのだろう? そんな志を問うだけ無駄なのでしょうか?
 世の中はどんどん便利になっているけれど、決してそれが居心地いいわけでもなく、そうは言っても、この時代に生きているのだから、逃げ出すわけにもいかない。でも、何ができるのかも、簡単にはわからない。ちいさな喜び、悲しみ、おかしみのある日々を積み重ね、人を想い、自ら考え(自分のこともちゃんと大切にしつつ)生きていくことが、今の自分にできることなのかもしれないと思っています。
 ただ、子どもたちが思い浮かべる未来は、ちゃんと希望に満ちあふれているんだろうなと思います。こんな状況下でも、楽しむことを諦めていない。大変なこと、辛いことも、たくさんあるのだけれど、ちょっと文句を言いながら、前を向いている。そして、今の世の中の振る舞いと状況をみて、これは違うとちゃんと気づいているように見えます。窮屈なコロナの時代はもう少し続きそうだけれど、その先にある子どもたちの未来はきっと明るいとわたしも信じて、新しい年を迎えたいです。
(みなりん)
   
2022年12月16日
『専守防衛からの変更』  日本は、憲法第9条の下で自衛隊を存在させる根拠として、専守防衛という立場を頑ななまでに守ってきた。自衛隊は、日米安全保障条約によるアメリカ軍との不平等な関係に縛られていて、さまざまな問題を抱えているが、にもかかわらず国内はもちろん外国に対しても専守防衛の立場を繰り返し主張してきた。安倍内閣の安保政策の改変以来専守防衛の姿勢は近年見る影もないほど毀損されてきたが、それでもなお専守防衛の立場を保持していると主張してきた。それをこの度の岸田内閣の、敵基地先制攻撃能力の保有を柱とする防衛力増強政策は、はっきり転換することを明らかにしている。こんな国の基本政策の変更について、国会解散総選挙により国民の意見を聞くでもなく、国会で与野党が議論することすらないまま、予算のことまで内閣で決めてしまおうとしている。由々しき事態だと思うが、新聞テレビなどの報道は事態の意味するところをほとんど伝えていない。戦後70年余を経て、政治もマスメディアも戦争の歴史と教訓をほとんど忘れてしまったようだ。(宮)
   
2022年12月9日
『土手の草』  毎日歩いている浅川土手の遊歩道に接する両脇は、秋が深まってから(10月末?)草刈り作業が行われた。そこに、いま青々と草が生えている。記憶では土手斜面の草刈り作業のあと、例年寒さが増すとともに枯れ草色で覆われていたはずだが、現在の状況は春先みたいに、短い草が青々と繁茂している。とてもきれいで目を楽しませてくれるが、真冬の寒さに震える今日このごろの景色としてはちょっとおかしいのではないかとも思う。気候異変の現れだろうかと心配になったりする。土手の桜並木や土手近くの公園の落葉樹は、紅葉したあと、日に日に葉を落として冬の姿になってしまったが、土手の斜面だけは青々とした草が生えているのだ。(宮)
   
2022年12月2日
『白井聡の対談から』  パソコンで見た高瀬毅と白井聡の対談での一コマ。白井聡があるテレビ番組に出たとき共産党の小池晃と一緒になった。そのときの雑談で、矢部宏治の本が話題にのぼった。日米の歪んだ関係を明らかにして結構売れた本だということは共通の認識だったが、小池晃は矢部の本のどこが新しいのか、あんなことは大学時代の研究会で散々聞かされた話だと言ったそうだ。これを聴いた白井聡は、小池の認識に共産党の優れたところと弱点が現れていると感じたと言う。

 白井聡が感じたことについて、高瀬・白井対談では十分に展開されていなかったので、、あらためて考えてみたい。第二次大戦後、日本が連合国の占領から再び独立する過程(サンフランシスコ講和条約締結)で、すでに始まっていた東西冷戦の国際政治環境のもとで、軍事的にはアメリカに全面的に依存する。当時、独立と軍事面でのアメリカ依存はセットで始まり、以後の日本政治を規定してきたが、その根底には日本の法体系に優越するアメリカ軍の存在があった。明治維新以来脱却するべく苦心惨憺してきた治外法権状態が再び現出した。しかも今度は日本を外国の侵略から守るために必要な方策として認識された。しかし、共産党は歪んだ日米関係をアメリカ帝国主義に従属する関係と見ていた。この関係は今日まで続く歪んだ関係だ。

 他方で、治外法権を根底に持つ日米関係を、保守政治陣営は、経済発展優先と軽武装の当然体制と考え、長年慣れ親しんで、明治時代の政治家のように脱却すべき関係とは考えなかった。戦後政治の大半は保守党が政権を担当してきたので、国民の大多数も、長年継続してきた日米関係を治外法権を前提とした歪んだ関係などとは考えてこなかった。
 矢部宏治らの著作は、これらの歪んだ日米関係、治外法権状態の存在をあからさまにした。共産党にとっては数十年前から常識になっているような事柄も、新しい著者の新しい著作は、世代交代を重ねて、眼前の日米関係を極々当然のことと感じている人びとにとっては初めて目を開かされた新鮮な指摘と見えた。新しい国民に新しい著者・著作が必要なのであった。戦後80年近く経過した社会で、問題の意味をきちっと認識することはとても重要だが、空気のようになった関係と世代交代は、問題の認識を曇らせてしまう。敗戦とその後の日米関係の構築など教科書に載っている歴史でしかない人びとにとって矢部宏治らの著作は現実の政治・社会問題の意味を考えるための刺激剤になるのだ。
(宮)
   
2022年11月25日
『AI音声のニュース』  朝のNHKを見ていたら、「出かける前に押さえておきたいニュースをAIによる音声でお伝えします」と。AIの音声と言われなければ人の声と区別がつかない声で、ニュースが読まれていく。違和感を感じた。日進月歩の技術の成果かもしれないが、しかし、ニュースをなんでわざわざAIの音声で放送するのか。複数の人がかかわっているニュース番組なのだから人が読んで伝えればいいだけのことだ。必要もないのに機械に依存するやりかたに呆れる。(宮)
   
 
『22円で届いた手紙』  最近、手紙を書くことも少なくなったが、今も時々、親しい友だちと手紙でやりとりすることがある。基本的に言葉で思いを伝えるのが下手な私は、基本書く方が断然気持ちを伝えられる気がしている。ホント言うと、もらう相手はあまりに長い手紙にうんざりしているかもしれない…。でも手書きの手紙をもらうときのなんともいえない嬉しい気持ち。相手もそうだといいなと思う。
 少し前のこと。以前誕生日に小さな本を贈った友だちから封書の手紙をもらった。白い四角い封筒に入ってなんとなく改まった様子の手紙だった。封書の手紙をもらうなんて本当に久しぶり。封をあけたら彼女の素直な気持ちと温かな人柄が伝わってきて、ちょっと泣きそうになった。読み終わって封筒に手紙を戻そうと宛名をもう一度みたときに「あれ?」と違和感に気づく。なんとそこには合計で22円分の切手しか貼っていなかったのだった…。「え?」もしかして22円で届いた奇跡の手紙かしら?とちょっと楽しい気持ちになってきた。しかし切手の貼ってある位置をみると、どうやらその上にもう一枚貼ってあったのかもしれない空間が。多分ここには62円か63円の切手が貼ってあったのだろう。見ることのなかった彼女の貼った切手の貼ってあったであろう箇所をみながら…本当にこのまま、うっかり誰の目にもとまらず無事に、この手紙が届いたのなら…などと想像してニヤニヤする私。
 この話には後日談があり、先日手紙の主に会う機会があったのでこのことを話してみた。「えー、○○ちゃんが好きそうな絵のを、63円のシールの切手で貼ったのに」とのこと。昔の水を付けると糊になるタイプの切手もあるが、そうではないシールのもの。古い時代の切手ならノリが弱くなって取れてしまうこともあるかもしれないけれどシールがはがれてしまったと知って驚いた。あのペタリと貼れるシールの切手は結構会社でも使っている。しかしあれが剥がれてしまうとは、きっといたずら好きな、手紙の神様が友人を亡くした私たちを元気づけようとやった仕業に違いない。
(やぎ)
   
2022年11月18日
『バス停の女性』  帰宅するためにバス停に行ったらバスが出た直後で誰もいない。ところがバス停に近づいたらベンチに若い女性が横になっている。私が使っている高幡不動のバス停にはベンチが5,6台設置されていて、その先頭のベンチに人が横たわっているので驚いた。まもなくバスが来たら、その女性はむっくり起き上がったので、私は思わず「具合が悪いのですか」と声をかけた。「いえ、そうじゃありません、大丈夫です」といってとくに具合が悪そうでもなくバスに乗り込んだので、それきり気にしないでいた。
 2つ先のバス停に近づいたときにその女性は、バスが動いているのに席を立って前ドアのほうに歩きだした。運転士があわてて「走行中に席を立たないでください」と注意したが、知らんぷりをして運転士の脇に立った。注意を無視された運転士は「危ないから走行中は動かないでください」と言ったが、女性は全く言葉を発しないで両替をして運賃を払い、バスを降りた。
(宮)
   
2022年11月11日
『モンドリアンの絵』  モンドリアンの絵「ニューヨークシティー1」が77年間逆さまに飾られていたというニュースがテレビ、新聞で報じられた。抽象画だからありそうなことだが、制作当時の写真(モンドリアン本人と写っている)を見て気付かれた。しかし、逆さまを本来の姿に戻そうとすると絵が損傷を蒙るので、逆さのままにしておくという。モンドリアン、ニューヨークというと、『ミスターオレンジ』のことを思いだす。ニューヨークに移り住んだモンドリアンが、オレンジを配達に来た八百屋の息子と仲良しになるという話を作者のトゥルース・マティさんはよくぞ考えてくれたと思う。(宮)
   
 
『住所のない卒業生名簿』   先日のこと。卒業した学校の名簿が届いた。この名簿、予算の関係もあり毎年ではなく4年に1度、発行される。私が通っていた学校は、1学年は1~2クラスで、中学1年生から高校、短大のようなものまでの8学年にまたがって交流がある小さな学校。そんなわけで年齢を超えて様々な学年の人と関わる機会も多く、自然と親しい交流が生まれていた。だから名簿が来るとちょっとワクワクした。あの人は今どんなところに住んでいるのだろう?結婚はしたのか?生きているのか?近所に卒業生はすんでいるのかな?等々。実際に使うことなどはほとんどなくても楽しく眺めていたものだった。が、しかし今回届いたものは…名前と住所の途中までだけで電話番号もない。何回生で、どんな人がその年に在籍したかは見られても、住所の番地もなく、懐かしく思って思わず手紙を書くことも、電話をすることもできないのであった。もちろん今も親しく交流している人は年賀状のやりとりもあり住所も電話番号も知らないわけではないけれど…。実際にはほとんどそういう用途では使っていなかったが、ふと懐かしくなってやりとりが再開することだって以前の名簿ならあったはずだった。個人情報の問題はいろいろあるけれどここまできたのかと思ってむなしい気持ちでいっぱいになった。嫌な時代だな。こんな名簿なら印刷代がもったいないなぁなどと思うのは私だけだろうか…このやるせなさ、どこへぶつけたらよいものやら。(やぎ)
   
   
2022年11月4日
『神保町ブックフェスティバル』  3年ぶりに神保町ブックフェスティバルが開催された。2日間の催しだが、とくに初日の10月29日はこれまでにない人出に驚いた。本好きの人がこれだけ大勢いるのだと感じた。オーウェルの『一杯のおいしい紅茶』やピルチャーの本がよく売れたのはこれまでと同じだが、これまでなかった反応の一つは、若い人が『関東大震災と中国人虐殺事件』、『濱口雄幸伝』、『オウム真理教の政治学』などの本を手にとってくれたことだ。そして内容を説明すると、耳を傾けてくれ、納得して買い上げてくれる。現代日本の状況を人々が深刻に受け止めていることの反映だろうと感じた。
 ブックフェスティバルに来てくれた人は本が好きで、気に入った本に出逢えば買うつもりだから、我々の説明を聴いてくれる。説明のしがいがある。それから3年ぶりに来てくれた人が新しい本を求めて来てくれたのは嬉しい限りだ。新刊書があまりないのは申し訳ないが、朔北社の本を気に入ってくださる読者が存在することをあらためて確認できた。久し振りのイベントは盛況のうちに終わり、高揚した気持ちを胸に帰途についたのである。
(宮)
   
2022年10月28日
『権力』  中国共産党大会で、習近平が3期目に入り、4期目、終身まで視野に入れて行動しているなどという情報も伝えられている。ひとたび権力を握ると手放したくなくなる。権力の魔性の魅力に取り憑かれてしまうのだ。
 鄧小平が最高実力者(この呼称も当時の中国で地位と権力が分離していたおかしなものだ)だったときに、彼は毛沢東時代の中国の歴史(文化大革命を始めとして厖大な数の国民を犠牲にした混乱を極めた政治)を総括して、共産党トップの総書記は2期10年で交代するという制度にした。鄧小平のあと、江沢民、胡錦濤はこの制度に従って、自身の10年の任期の後、総書記の地位を次世代に譲っていった。二人の頭に、毛沢東時代の反省があったのだと考えられる。共産党一党独裁を始め制度的には他にもいろいろな批判があるにしても、毛沢東時代の歴史の反省に立って取られた数少ないまともな行動規範であり、江沢民、胡錦濤はこれを守ったのだが、習近平は違った。制度を都合の良いように作り変えた。報じられている人事を見ると、自身に忠実な部下たちを結集している。今や習近平個人の能力や思惑の範囲内でで何事も決められ動かされる。権力を握った今はそれが可能だ。
 イギリスで短期間に首相が交代していて、イギリスらしからぬ政治状況の混乱だという批判があるが、最高権力者に問題があれば、それに異を唱え、交代させているわけで、代議誠民主主義の範囲内で事が動いている。中国と比べればはるかにまともな政治が行われている。日本は?イギリスに及びもつかない状況にある。
(宮)
   
2022年10月21日
『若者の働き方』  テレビニュースで中国の若者が日本で働きたいという。現に日本に働きに来る中国の若者が増えているという。中国に比べて生活の諸側面で自由があることが大きな理由らしい。最近の中国でゼロコロナを実行するために行われているきわめて強圧的な管理や、同時に経済不況による就職の困難など、日中を比較して、日本で働きたいという考えは理解できるが、日本の政治、経済、社会が直面する厄介な問題を知っている者からすれば、一瞬「え!」という感じがするが、あくまで比較の問題なので、中国の若者の行動もよく分かる。日本の終身雇用に好感していることもおなじことだ。日本では終身雇用を止めることに熱心なのに。最近の中国の強度の管理社会状況のなかで暮らす息苦しさから抜け出して、もうすこし自由な空気の中で生活したい、若者の失業率が高い中国の極めて厳しい競争から逃れたいということだろう。
 別のニュースでは海外で働く日本人が、現在の円安によって、従来の2倍、3倍の高い収入を得ていて、優雅な生活を満喫しているという。暫くの間はこの機会にせいぜい稼ぎたい、それからいずれ日本に戻って生活したいという。
 日中の若者は、かってに変えられない環境のなかで、少しでも納得できる生活を送るために、それぞれ移住先を選択し働いている。対照的ニュースが面白かった。
(宮)
   
2022年10月14日
『ラジオと眠り』  夜中に目が覚めるとラジオのスイッチを入れる。深夜2時、3時には音楽の時間で、とくに聴きたい内容だとわかると、ひととき耳を傾ける。しかし最近気付いたのだが、歌謡曲のように言葉が伴った音楽のときには、最後まで聴いてしまうことが多いのに、言葉のない音楽のときには、途中で眠ってしまい、気がついたら全然別の番組に移っていたりする。それが思いがけない面白い話で、これまであまり興味がなかった分野の人のインタビューなのに、最後まできっちり聞いてしまう。
 どうやら言葉があると頭が言葉に反応して働いて、眠くならないらしい。言葉なしの場合にはどんな名曲でも無意識のうちに眠気が襲ってくることが多いのだ。そういうわけで一昨夜、ダーク・ダックスとボニー・ジャックスをやっていたが、睡眠不足になるのを恐れて、スイッチを切った。
(宮)
   
 
『歴史は自分の身近な場所から』  子どもの頃から勉強をちゃんとしてこなかった私の頭の中の知識は乏しく、さらに言えばかなり偏っている。しかし、ある程度の好奇心は持ち合わせているため、知りたいことはなるべく調べたり、本を読んだりすることにしている。その中で今仕事の流れで読んでいる各市町村の歴史(各市町村が作る市史)がものによっては面白くてたまらない。中でも、自分の知っている場所での出来事には人は興味を惹かれるものだなぁと思った。今はこんなだけど、昔この場所でこんなことが起こっていたのか!とか、今はあんなに静かな場所だけどそんな混乱や生活があったのか!とか、回覧板に書かれた文言にしても時代を反映して面白く、災害にしても川の氾濫の様子や被害など表や図、写真なども見ながら知ることが出来るからなおさら興味をそそられる。その内容が正確であればあるほど、そして庶民の生活が書かれていればいるほど、自分に置き換えて想像することができる。また災害に対しての意識も違ってくるだろう。日本の歴史の全容を知ることも大切だが、子どもの頃にもっともっと地元のことをこんな風に知れたらよかったなぁと思う。自分たちの住む土地で起こった歴史をその地元に暮らす長老?などに話してもらったり、その歴史の跡を見られる場所に行き、生の歴史に触れることでその場所を違った視点から見るようにもなるかもしれない。もっと興味がわいたなら記録を読んでみるといい。どこの市町村にもある市町村史、仕事だから手にとったが、こんな分厚い何巻にもわたる本をなかなか読むのは大変だ。一般の人がどこまで図書館などで借りて読むかはわからないが、その地味な見てくれのその分厚い本には、身近な歴史が詰まっていて、いつでも読まれるのを待っていることを覚えておくといいかもしれない。興味がわいたらその中の気になる時代だけでも読んでみてほしい。(やぎ)
   
2022年10月8日
『情報の発見』  新聞・テレビは何が起きているかを知る一次情報源として見ているが、報じられた出来事の意味を知る、考えるためには私にはあまり有用ではない。ほとんどつねに欲求不満が残る。代わりに見るのがツイッターだ。ツイッターでも発信している人は無数にいるが、すべてを見ることなどもちろん出来るわけがないので、これまで読んできて納得のできる意見を述べている人と、異なる意見を述べている何人かの知名人を読んでいるのが現実だ。ツイッターは、しかし発端でしかなくてそこから有益な議論を展開している文章や対談に導かれていく。2、3例をあげれば、10月4日の神保哲生さんとダースレイダーさんの対談「ダースレイダー x 神保哲生 岸田政権、参院選のその後」や、10月6日の【ジャーナリスト鈴木哲夫氏と語る、「国葬」後の政治状況】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#181がそれだ。
 すぐれた報道、評論は存在するのだが、それが多くの人に読まれ拡がって、社会を動かす力になれるかというと、そうならない。そこがまさに困難な事態の原点のようだ。現代は社会的に影響力のある学者、批評家が存在せず、新聞・テレビもまた信頼をなくしている。しかし、真に読むに値する情報がないわけではないのだ。その情報をいかにして発見し、人々に知ってもらい読んでもらうか。これまでの、テーマと対談者の選択を見ると神保さんと郷原さんはともに情報のすぐれた案内人だと思う。
(宮)
   
2022年9月30日
『虫の声』  今年の夏は、猛暑ではあったが短くて、早くから蝉の声よりは虫の声が賑やかだった。今、会社から帰宅の道すがら、団地は虫の声で満ちている。朝晩涼しくなってきたのと相まって秋が来たと実感する。姿は見えないが、いろんな声が聞こえる。夜になっても同じで虫の声が聞こえる。そんな秋の風情を感じながら、夕食を取り入浴して床に入る。
 近頃は歳のせいで何度か夜中に手洗いに立たねばならないが、真夜中にも外に面している小窓から虫の声が聞こえている。虫たちが真夜中まで鳴き続けているのに驚いた、
 夜が明けて外が明るくなった頃、気がつくと、聞こえてくるのは鳥の鳴き声だ。明るくなると選手交代らしい。
(宮)
   
 
『義兄の一周忌』  先日、伊万里の義兄の一周忌のため帰省した。台風が近づいていたこともあり行けるか心配していたが、幸い台風をすり抜けて9月23日夜に博多に移動し一泊し、24日当日は翌朝早くホテルを出て、電車を乗り継ぎお寺からほど近い松浦鉄道の駅に降り立った。九州に行くとバスか兄弟たちの車で移動することが多かったがこんな風に電車を乗り継いでのんびり向かうことはめったにない。博多から空港線で唐津まで行き、唐津からJR筑肥線に乗り換え伊万里駅、伊万里から松浦鉄道という経路だ。はじめは雲が多かったものの海沿いを走るうちに空が晴れてきた。海のシーズンも過ぎていたこともあるのだろう。電車はのんびり人もまばらに進んだ。単線のため途中駅ですれ違いのための待ち合わせが5分とか6分とか時々あるのも新鮮でのんびりして気持ちよかった。

義兄とは夫のお姉さんの連れ合いさんで、考え方の違いで色々気持ちのすれ違う時期もあったものの病気をして会社をやめ、自分の事務所を持つようになり、義父母を見送り、ご自分の母親を見送った頃から少しずつ気持ちが通じ合うようないい時間を過ごし、打ち解けてきたところだった。しかしコロナ禍でしばらく会う機会もないまま、ふっと急なお別れをすることになってしまった。義姉はこの一年、大好きな夫を亡くしつらい時期を過ごしてきた。それを子どもたちや、兄弟たち、同僚の方々と乗り越えて来ての1年。久しぶりに会ったお義姉さんの横顔は疲れてはいたが清々しく見えた。どうにかこの一年自分なりに乗り越えてきたことをきっとお義兄さんに報告したのだろう。それぞれの死はいつやってくるかなんて今は誰にもわからない。お義兄さん囲んで、親戚たちが集まり法要をする。人が集まる、集うということによる心強さを感じる。亡くなる人もいれば生まれる命もあり、順繰りに命が巡っていくこと。生きられる限り生きようと兄弟や姪、甥の顔をみながらそう思った。
(やぎ)
   
2022年9月24日
『台風情報』  9月に2回ある3連休が台風のせいでもっぱら防災対策に集中せざるを得なくなった。気象科学が発達して情報がきめ細かくなっているが、せっかくわかっている情報は、的確に視聴者に伝わっているのだろうか?最近NHKのニュースで「詳しいことは右上のQRコードをクリックするとご覧になれます」などと頻繁に言う。そんな事言わずに必要な情報はQRコードを使わず、ローカルニュースの部分で時間に余裕をもたせて丁寧に伝えてほしい。現在の気象情報は地域別に、時間を追って伝えてくれるが、画面の転換が早すぎてちゃんと頭に残らない。決まった通りの順序と形式で流しているが、大事な情報は、臨機応変に形と順序を変更してゆっくり伝えてほしい。
 大事な情報を必要な人にどのように伝えるかという出発点にもどって考えてほしい。
(宮)
   
2022年9月16日
『農家の娘』  仕事を終えての帰り道、浅川土手の遊歩道やその脇に並行している道路ではなく、も一つ内側の京王線沿いの道を歩いて行った。ずっと平坦な道が続いているが、その道が途切れるところまで行くと踏切を渡ることになる。踏切を渡って高幡不動に出るためにかなりきつい勾配の坂道を登らねばならない。先日、その坂道を年配の女の人が、買い物の時に使うカートを押して登っていくが、足元が安定していなくて坂道を滑り落ちるのではないかと危険を感じて、「お手伝いしましょうか」と声をかけた。その女の人は立ち止まって、「私は農家の娘だから、もう80歳を超えたけれども、このぐらい大丈夫、ひとりで行ける」と答えた。そして、はじめに見たときよりしっかりした足取りで坂を登り始めたので、私はそれ以上余計なことを言わないで離れた。(宮)
   
2022年9月9日
『ニュース映画』  エリザベス女王が亡くなった。在位70年という。1953年に行われた戴冠式と皇太子(今の上皇)が参列したというニュースを、当時映画館のニュース映画で見たことを覚えている。子供の頃映画館に行くと、2本立て映画の合間にニュース映画が上映されていた。テレビがやっと出始めたころで、映像付きのニュースはニュース映画で見ていたのだ。なかでもアメリカ中西部の竜巻がよく取り上げられていたことが記憶に残っている。日本にはない大平原地帯で大きな被害をもたらす竜巻の凄まじい映像を、異国の出来事として見ていたが、近頃は日本でも竜巻が発生しているから、これはやはり異常気象のせいなのだろうと思ってみている。ニュース映画では、竹脇昌作(竹脇無我の父)のナレーションが懐かしい。ウィキペディアによると竹脇昌作はパラマウントのニュース解説をしていたそうだから、私は当時盛んに上映されていた西部劇映画を見に行き、ニュース映画を見ていたようだ。(宮)
   
2022年9月2日
『岸田首相と国葬問題』  日本を韓国に奉仕させるという教義に基づいて、日本人信者に多額の献金強要と霊感商法によって日本人信者を経済的貧窮状態に陥らせ、家族生活を崩壊させた旧統一教会を安倍元首相は礼賛し、同教会の広告塔の役割を果たしてきた。多額の献金と霊感商法の歴史からだけでも旧統一教会は反社会的組織だが、そもそも教義は(あえて言えば)反日的である。他方、選挙に勝つことを至上命題と考える安倍元首相と周辺の政治家たちは選挙のとき、そういう組織から長年様々な形で支援協力を得てきた。日本人信者の不幸を生みだし、選挙では支援を受け、日本における広告塔となって旧統一教会協力する。旧統一教会と自民党の、この損得がらみの捻れた醜悪な関係は数十年を費やして形成されてきた。近年その関係の中心にいたのが安倍元首相である。

 事実に基づいて論理的に考えたら、安倍元首相は選挙に勝つために反社会的組織と手を組んで、活動してきたと言うほかない。この安倍元首相を国葬で送るという。強い反対運動が起きるのは当然である。さらに国葬実施の決め方が、閣議決定によっている。法律専門家が法的根拠がない、憲法違反だと批判するようなやり方だ。

 国葬を巡る批判状況を受けて、8月31日の記者会見で岸田首相は、国民の意見、批判を真摯に受けとめ正面から批判にに対して、国会の閉会中審査の形で自身が出席して質疑に答えたいと述べた。
 きっぱりしたこの言い方は、岸田首相に対して、まともな行動に立ち返るのかという期待を抱かせる。期待したいのだが、同じ8月31日の記者会見で述べられた国葬の理由付けを思い起こすと、実らぬ期待に終わるだろうと想像してしまうが、岸田首相は国会でほんとうに言葉通りに正面から答えられるのか?

 岸田首相のきっぱりした言明を受けて、野党は問題の急所をきちっと押さえた質問をどこまで出来るのか?

 休会中審査とはいえ、国会が本来の仕事をする姿が復活するか否かの大事な局面だと思う。
(宮)
   
 
『自転車も変わっていく』  以前はよく自転車に乗っていた。今は駅前はどこも有料の駐輪場に置かなくてはならず、煩わしく歩くことが増えた。けれど自転車で走る爽快感は格別だ。今も地方に旅にでかけたりすると車よりももっぱらレンタサイクルを使っている。それも今は山道でも坂道でもなんでも電動自転車でスーイスイとどこにでも行ける。全然疲れないわけではないが電動の力を借りることで随分楽させてもらっている。舗装されているけれど車も少ない田舎の自然豊かな道をのぼったり下ったり、木々の間や田んぼの土の道や細い砂利道の間を縫って走るのはなんと気持ちのよいことか。

 朝、少し遅刻して会社へ向かう道すがら小さな子どもが小さな小さな自転車をこいでいた。バランスよく補助輪もなしでグイグイ進む。あんなに小さな自転車があるのだなぁと感心する。今や自分の子ども時代に主流だった型の自転車はすっかり見かけなくなった。幼児用の三輪車はかろうじて残っているようだがこちらも最近ではほとんど見ない。小さな二輪のペダルなしの自転車を足でけって走るスタイルが主流のようだ。昔だったら三輪車に乗っていたであろう年齢の子どもたちがそれに跨っているの姿をよく見かける。やがて足でけって進むモノからペダル付のモノに乗りかえる。すでに二輪で慣れているせいかほんの小さな子どもでも小さいけれどペダル式の二輪の自転車を乗りこなしているのが面白い。いまは補助輪なんてないのかな?と遠い昔を思い出しながら眺めた。
(やぎ)
   
2022年8月26日
『感染者数』  新型コロナの感染者数増加の動きは、現在第7波と言われている。1日あたりの感染者数の推移を、NHKがまとめた2020年1月以来の棒グラフで見ると、第5波のピーク2021年8月20日が2万5992人、第6波のピーク2022年2月5日が10万4169人であるのにたいして、第7波のピーク(まだ確定ではないが)8月19日は26万1029人である。連日20万人を超える感染者が出ている。感染者数の拡大は第7波で極まったようだ。ところが感染対策としては次々緩和策が実行されている。国内だけでなく水際対策と言われているものも緩和されつつある。緩和の反面の動きとしては、初期の頃の様々な支援策はほとんど取られていない。感染者数の拡大の影響をもろに受ける医療機関や飲食業等の困却は言うまでもない。新型コロナ感染3年目の後半に入った今、政府の無能にいよいよ追い詰められていく。(宮)
   
2022年8月19日
『新聞とテレビ』  新聞テレビのニュース、報道番組に対する批判は一段と激しく厳しくなっている。批判の声を発している人びとは、戦前の軍国主義に同調し、戦争を煽った新聞ラジオの歴史を知っていて、権力に阿るのではなく批判的立場に立つことが大事なことだと考えている。戦前と同じ過ちを繰り返したくないという強い気持ちから発言している。だが、そのような批判の声は、新聞テレビに届いているだろうか。現状は新聞テレビが、聞こえてはいても批判に応えているとは私にはとても思えない。そもそも応えようという意識がとても希薄に見える。問題は組織と各人の意識の両面にある。批判者の知識・感覚と新聞テレビで働く人たちの知識・感覚は大きくすれ違っている。だとすると事態は大変深刻だ。時間をかけて作り上げられてきた現在の組織の生理はにわかに変わるはずがないし、その組織の中で仕事をしている人びとには、その中で育まれた行動様式に無意識のうちに縛られている。その結果かなり限定された動きしかできない、しようとしない。結局、戦前の轍を踏むことになるのかと危惧している。しかしそんな組織の中にも、批判に反応する少数の人が存在していることも事実だ。その一人ひとりの意識と時に職を賭した行動に期待するほかないのではないか。最後は一人ひとりの意識と行動にかかっているのだと思う。今日、このように考えざるを得ない深刻な状況に追い込まれている。(宮)
   
 
『その問いには答えられません』 「このエベレーター、新しい?」
駅の改札付近、お父さんに質問をしている子どもの姿が微笑ましい。
〈エレベーター〉→〈エベレーター〉
懐かしき、子ども言い間違いあるあるであ~る。
「エベレーター」のようにわかりやすいのはいいが、なんのことを言っているのかわかってあげられず、「だっかっらっ、○○○だってばぁぁぁっっ、うぁーーーん」ってことも、ときどき。でも、基本的には、全部かわいかったんだな。

――あれから、10数年。最近の子どもの問いは、難しい。

「数学のホニャホニャホニャホニャララがわからなくて、二通りあるんだって、わかる?」
何を言っているのか、わからない…

「英語の間接ホニャホニャが、ちっともわからなくて、ホニャホニャがホニャホニャで、3人の先生にそれぞれ説明してもらって、それでもまだよくわかんない、これわかる?」
いや、私は全くわからんよ…

「このエベレーター、新しい?」だったら、胸張って答えられるのにな。
「うん!新しいよ!」って。(みなりん)
2022年8月12日
『蝉の声』  日曜日(7日)の午後、団地の管理事務所に用事があって歩いていく。団地内はもともと植物の多い作りだが、耳を聾する蝉の声で充満している。やっと夏らしい景色になったと感じた。というのも6月末に梅雨があけて夏になったはずなのに、晴れているが蝉の鳴き声が全く聞こえないというもの足りない日が続き、あげく梅雨に戻ったような雨降りの毎日だったから。こんどこそ夏になった実感を持つことができた。蝉の声は団地内だけでなく、浅川土手を歩く際によく聞こえてくる。異常気象が続く昨今、四季の変化を例年通りに感じられて取り敢えずほっとする。(宮)
   
2022年8月5日
『演出過剰、演技過剰』  テレビ番組の多くが私にとっては演出過剰、演技過剰で、スイッチを切ることが多い。日曜日の「のど自慢」は何十年も続いている番組だが、司会者の疳高い第一声を聞いた途端、あとを見たくなくなる。宮田輝が司会をしていた頃は日曜日の昼の風景だったが、盛り上げる、盛り上がるための演出、演技が嫌で今は見ない。「のど自慢」に限らない、多くの番組がこれでもかこれでもかという感じで演出に知恵を絞っている。過剰な演出はせず、普通に作ってほしい。大相撲の場内放送が、今のままで行ってくれればいいがと思う。盛り上がりの嫌いな偏屈人の感想を書きました。(宮)
   
2022年7月29日
『土手を見上げながら』  朝は土手の上の遊歩道を歩く。この時期ほとんど姿が見えない富士山が、前夜の雨と風のせいで、前方に黒い山容を見せていたりする。浅川の流れとともに、毎日の景色を楽しんでいる。
 帰りは土手の下の道を歩く。左手に道路から3、4メートルほど高い土手を明るいうちに歩くと、土手の斜面に生い茂っている草が風に靡いて、日中の高温からすこし涼しくなっった空気とともに爽やかな気持にさせてくれる。見上げる土手の景色はそこを歩いたり走ったりしている人も含めて、一幅の絵だと思っている。モネの「日傘をさす女」が好きなのも同じような構図だからだろう。
(宮)
   
 
『空がきれいで』   今週は暑かった。だけど空を見上げると空が一枚の大きなキャンバスのように見える。空の青に雲がいろんな形に広がっている。大きすぎるので少しずつ切り取って見てみると、あっちのキャンバスには油絵のようなモクモクした白い夏雲があり、こちらのキャンバスには水彩画で描いたような空がすけてみえるような雲が、あちらの空のキャンバスには少し灰色がかった雲がつらなって、その左にはうろこ雲が描かれていて、その無限な広がりに見飽きるということがない。天に昇っていった友はどの雲にのっているのかなと見上げる。空がきれいでその空を見ながら泣きそうになる。(やぎ)
   
2022年7月22日
『新型コロナ感染』  7月21日の全国の感染者数は18万人を超えた。急激な増え方に驚く。では外国ではどんな状況か。ジョンズ・ホプキンス大学のデータによる最近4週間の感染者数は、1位アメリカ332万人(死者数は10,675人)、2位フランス291万人(1877人)、3位ドイツ256万人(2388人)、4位イタリア237万人(2478人)、5位ブラジル156万人(6687人)6位日本144万人(624人)、7位オーストラリア105万人(1409人)、8位台湾90万人(2667人)、9位韓国70万人(306人)、10位イギリス67万人(2962人)となっている。
 世界中で新型コロナ感染は一向に収まっていないことがよく分かる。感染者数と死者数とも、アメリカが突出している。現状把握にせよ感染対策にせよ、外国の動きと比較しながら問題を考えることが必要だと感じる。専門家による分析を聴きたいが、あまり出てこない。
(宮)
   
2022年7月15日
『回顧60年』  5月に高校時代の友人が亡くなった。この友人のほかにもすでに幾人か亡くなっているが、否応なく高校時代のことをしきりに思い出す。教育は現在そのあり方が問題にされる重要なテーマだが、高校時代で思い出すのは幾人かの先生だ。世界史、日本史、古文の諸先生は今思い返してみると、いずれも確かな学識を持った人たちだった。知らないことを初めて知る喜びを味わっていた。世界史の教科書など繰り返し通読した。古代史とルネサンスのことは特に印象に残った。ルネサンスについては大学に入って大野真弓教授の授業でさらに興味を掻き立てられ、ブルクハルトの『伊太利文芸復興期の文化』(岩波文庫)を面白く読んだことを思い出す。わたしはたしかに授業を楽しんでいたと思う。
 それから、ほとんど口を利いたこともないのだが、学校長も教育熱心な人であった。武田忍校長。在学中に3人の学者、芸術家を呼んで、講演会、演奏会を催した。講演の内容は覚えていないが、顔ぶれを見ると武田校長の意気込みが伝わってくる。矢内原忠雄、犬養道子、伊藤京子の3人だ。伊藤京子の美しいソプラノの声が印象に残って、その後放送等でよく聴くことになった。後に、3人について調べてどんな仕事をした人かを知り、武田校長の意図を理解したと思う。
(宮)
   
 
『ジル』  今度出す本の校正の何度目の作業をしていいる時に「ジル」という名前の女性にふと目が留まった。以前同じ職場で働いた長田さんのことを思い出したからだ。なんと彼女自身が、同期の女性に「ジル」と呼ばれていたからだった。私自身は「ジル」と呼んだことはなかったが、いまさらながらなぜ「ジル」だったのかと気になった。しかし名字は長田でジルとは全く関係なさそうだ。下の名前は?なんだったかな。思い出そうとしても下の名前がかけらも出てこない…。でもジルという名前の由来になるような名前ではなかった気がする。そこでもう一人のジルのこことが頭に浮かぶ。彼女の場合はジルと言うよりも正確には「サヨジール」だったが。この時の「ジール」は日本語の「汁」をもじったものであった。一つの言葉からいろんなことを連想してしまう癖がある。どんどん頭の中で関係ない場所へ行ってしまうのは集中力がないせいかもしれない。仕事中の妄想はほどほどにしないとねと自分で自分にこそっと耳打ちした。(やぎ)
   
2022年7月8日
『ジョンソン首相辞任』  イギリスのジョンソン首相が辞任する。報道によると批判された行動の一つは不祥事が表沙汰になったときの嘘の発言である。発覚した時点の説明が嘘で、後で説明を変更することが繰り返され、もはや首相として信頼できないということだ。首相が自身の行動で罰金を取られたというのも珍しいことらしい。イギリスでは首相の不誠実な言動に対して現職の閣僚や政府の要人が公然と批判し、辞職する。結局ジョンソンは辞任に追い込まれた。日本との大きな違いはここだ。安倍首相の虚偽答弁、不誠実な言動がどれだけ繰り返されても、政府内部や与党から批判の声が聞こえてこなかった。自民党はもとより、連立与党の公明党が批判の声を発しないのには呆れる。何があっても政権の一角に連なっていたいという権力志向だけが印象に残る。そんな首相、政府、与党に対して、選挙になれば有権者の多くが相変わらず支持し続ける。日本政治が直面している議会政治の危機の深刻さよ。(宮)
   
2022年7月1日
『小田嶋隆』  ツイッターで気になる文章を書いていると注目していた人だ。このところ病気でツイッターが途切れたりして、その挙句亡くなったのに驚いた。奇抜な表現すぎて納得できないテーマも、別のところに書いた長文の説明を読むと、そのテーマについて十分に考え抜き、かつテーマ周辺の現象に関するバランスの良い観察に裏付けられていることがわかった。歴史、社会、文化、人間についての正直な観察と見識が、ツイッターの短文を支えていた。コラムを読むと、独特のセンスに触発されて表現されているが、それ以上にしっかりした分析にもとづいていると感じた。
 池田香代子さんとの対談で話題になった「お笑い」についての分析―権力ピラミッドと結びついた笑いの階層構造―は、私がお笑い番組にいだいていた違和感、嫌悪感をきれいに説明してくれた。亡くなられて初めて、類稀な知性と感覚の表現をもはや読むことが出来ないことを残念に思う。
(宮)
   
2022年6月24日
『ポスター掲示板』  6月22日、参議院選挙が始まった。ポスター掲示板には早速候補者のポスターが貼られている。東京都では34人の候補者が出ているが、ポスター掲示板は空白部分が多い。調べてみたら日野市では掲示板が228箇所に立てられている。東京都全体では約14000箇所にあるそうだ。これだけの数の掲示板にポスターを貼るのには大変な労力を要する。この点、強固な支持組織を持っている政党や候補者は、優位に立つだろう。公明党、共産党、自民党はいずれも支持組織を持っている。
 候補者を知る手段としては、ほかに選挙公報、政見放送、街頭での選挙運動があるが、ポスター掲示板は街なかで目に入ってくる選挙の顔だから、候補者としてはポスターを貼りたいだろうが、空白は投票日までにどこまで埋められるのだろうか。ポスターの有無が選挙結果を左右するとは思わないが、ポスター貼付の背後に組織的支持者の問題があることは事実である。
 一有権者としては、支持組織の有無ではなくて、これまで無関心を露わにしている有権者にたいして関心を持ってもらえるよう働きかけて、それが結果に出てくれればいいが、今日の有権者に対しては極めて実現性の乏しい期待だ。何事にせよ我が身に降り掛かってくるまでは関心を持たないのが今日の有権者だから。ロシアのウクライナ侵攻がこの有権者心理にどこまで影響するのか、注視したい。
(宮)
   
 
『法事』  義父母の7回忌、13回忌の法要をするために久しぶりに夫の実家を訪れた。家は義弟の一家が住んでいて、法要などの諸々にも心を砕いてくれるのが本当にありがたい。今回は兄弟とその家族だけでやることになっていた。そんなわけで前日からみんなで集まって久しぶりにいろんなことを語らうことができた。こういう時を過ごすことができるのは義父母のおかげといっていいだろう。供養とはいいながらもその実、そうやって連なっていく家族たちが顔を合わせつながりを持ち続けるために法事はあるのではないかという気がしている。日曜日はお寺で法要を営むが、義弟が前日に家でみんなでお参りをと仏壇の前でお経の書いてある本をみんなに配った。録音したどこぞやのお坊さん(偉い人らしい)のリードを聴きながら、みんなでお経を読んだ。最近会社でゴスペルの本を出したのでお経を読みながらなんとなくお経ってゴスペルとも似ているなと思った。一人がリードする箇所とみんなで斉唱する箇所、微妙な音の上がり下がりが記号で横についている。お経は楽譜にはなっていないし、歌というにはほど遠いが、なんとなく流れがあり、唱えているうちは読むことに一生懸命になり、無になれる気がした。大人も子どもも一緒になって読んだ。無になって色んなものと繋がる。空の上から義父母もきっとみんなが来たことを笑って喜んでくれていただろうか。(やぎ)
   
2022年6月17日
『渦中の人の意志』  細田衆議院議長の議長にふさわしからぬ言動、週刊誌に報じられているセクハラや選挙時の買収などを理由に不信任決議案が提案出され、あっさり否決された。この種のスキャンダルが明らかになったときがいつも思うのは、与党のなかから出来事に対する批判の声が上がらないことの異和漢である。細田議長のあの言動、行為を許容しているのか?許容したくないが、野党の不信任決議案には賛成するわけにいかないという政治的判断(?)で反対するのか。大事な問題に対して問題の核心についての判断を優先するべきではないのか。いまさら言うのも愚かだが、あの安倍元首相を8年もの長期にわたり支えたのは与党のこの態度である。同じことは、安全保障問題における日米」地位協定についても言うことができる。明治時代、政治家は治外法権の撤廃に命がけで奔走したが、現代の政治家や自衛隊の人たちは、独立国といえないような屈辱的内容の地位協定を、日本がアメリカに守ってもらうためには仕方がないことと思っているのだろうか。
 内部の批判的態度の大切さを改めて思う。政治家と選挙区有権者の関係にも同じことが言える。
(宮)
   
2022年6月10日
『苦しい自転車』  浅川土手を歩いていると、自転車に乗った人がたくさん通るがそのほとんどは、レース用の自転車に乗って、自転車用のヘルメットを着用し、レース用の服装をしている。ハンドルの中心に近いところに両手をかけ、体を前かがみに倒してかなりのスピードで走っている。その姿を見ると思い出すのは、同じタイプの自転車に乗ったときのことだ。あの自転車の形から否応なく姿勢が前かがみになる。ちっとも楽ではない。せっかく自転車に乗ってスイスイ移動できると期待しているのに、たしかにペダルは軽くてスピードは出るし、歩くよりかなり早いのだが、とにかく姿勢が苦しい。土手を走っている人たちは苦しくないのだろうかと思ってしまう。姿勢は苦しくてもスピードを楽しんでいるのだろうか。歩いている者のまことに自分勝手な感想だが、私なら普通の型の自転車で楽な垂直の姿勢で、まわりの景色をみながら走りたい。(宮)
   
2022年6月3日
『体育すわり』  少し前のニュースで、体育すわりのことが報じられた。「体育すわり」という呼び方をこのニュースで初めて知ったが、あの座り方のせいで、体調を崩す子どもが出てきて、その対策が考えられているというニュースだった。その後どうなったのだろうか。私の小学校、中学校時代にはなかった座り方で、長時間あの姿勢で座っていたら足や腰を痛めたり冷やしたりするだろう。ある時期から始められたことらしいが、以前、学校関係のニュースで、子どもたちが体育館の床などに体育すわりしているのをみて、子どもを一方的に押さえつけるような、ああいう座らせ方にすごい違和感を感じ、テレビニュースで見るたびにまたあれかと非難したくなる。
 ニュースが次々に報じられて、通り過ぎていく。しかし続報が必要なニュースも当然あるわけだが、その後どうなったのかということはほとんど伝えられない。私の、ニュースに対する大いなる不満である。「体育すわり」について、然るべき機関や関係者に取材してしっかり報じてもらいたいと思う。
(宮)
   
 
『偶然は続く』  以前何回か前にも偶然が続いた話を書いたが、またしてもこの間、偶然が起こった。その日は決算の集計が出たので数字に詳しい友人に入力や数字にミスがないか確認をしてもらうために日曜日に会社に来てもらった。14時頃すべて終えて手伝ってもらった友人と帰りがてらお昼を食べようと誘う。帰り道、思いついて南と華堂に連れて行き、そのあと南極堂で初の油そばを食べようと思って行ったら閉まっていた(実はすでに2か月ほど前に移転していたよう!)。仕方なく府中に移動。カレーを食べ、別れた。帰るつもりだったが、久しぶりに啓文堂に寄る。すると見ようと思っていたコーナーで雑誌を探す人がいた。なんだか見たことがあるぞ?と思ってみると学生時代の友人にそっくり。かなり近づいて間違いないだろうと判断し、声をかけると、当人だった。実は彼女が東府中にある市の美術館併設のカフェで時々働いているのは知っていた。一度だけ勤務日に訪れた事があったのだが、あきらか美術館の最寄りの東府中駅より遠い府中駅で遭遇するとは!嬉しかったのと大仕事を終えてほっとしたのもあって、誘ってお茶をした。広い日本の中で同じ町に住んでいても会わない人もいれば、こうして偶然が重なり住む場所も違うのに出会うことのある人もいる。しみじみとその縁がうれしかった。少しでも時間がずれれば会うことはないのだ。その計画性のない時間軸の中で起こる偶然というのが、たまらなく驚きと喜びをもたらすものなのだなと思う。またいつか思いがけなく誰かに会うことがこの先もあるかもしれないと思うと、未来の偶然が楽しみになる。(やぎ)
   
2022年5月20日
『安倍元首相』  安倍内閣に対する批判派の批判、とりわけ安倍元首相にたいする批判は、安倍元首相の歴史知識の幼稚さ、歴史的事実の捻じ曲げ、平気で嘘をつき続ける人格の低劣なこと、責任感の欠如など、およそ政治家として、いや、人としてあるべからざる資質の持ち主であることなどを理由に、まともな考察に値する政治家と思わないし、心底軽蔑している。私も同感を禁じ得ないが、しかし彼とその内閣が残した遺産の数々は、すでにとんでもない負の影響を日本の政治、社会にしっかり残している。その一つひとつについて経緯と意味と刻印された影響をきちっと分析して置かなければならない。バカにして終わりにしてはいけない。(宮)
   
2022年5月13日
『ロシアのウクライナ侵攻』  日本では、戦後77年経って、戦争の記憶は遠くに去り、またまた戦争に巻き込まれるような状況になってきたように見える。政治家然り、一般国民然り。岸田首相はGセブン協調を優先すると言って、ウクライナに軍事的支援を始めた。これがどこまで拡大するのか甚だ不安である。また、国民の多くがロシアのウクライナ侵攻を見て、自衛隊の軍備増強が必要だと強く思い始め、さらに核兵器も必要だと、北朝鮮が言っているようなことを感じている気配が濃厚である。
 ニュースを見ている限り、世界中、本気でロシア・ウクライナ戦争を終わらせるために動いている国はないようだ。ロシアの軍事侵攻を目の当たりにして自国の安全を必死になって考え行動するフィンランドやスウェーデン政府のNATO加盟の動きは理解できるにしても、アメリカを先頭に、どこの国も自国の利益優先で動いている。第二次世界大戦が、ドイツのポーランド侵攻から始まったことを思い出すと、プーチンのロシアがウクライナ侵攻の足踏み状態に業を煮やしてもう一段戦闘レベルを上げたら、あっさり世界大戦突入ということになるのではないか。そして最悪の場合、核戦争が始まり人類滅亡ということになる。戦争は始めるのはじつに簡単だが終わらせるのは至難の大事業なのだと改めて思い知るのである。
(宮)
   
 
『チキチキマシン猛レース?!』  会社から駅まで向かう道。その日は郵便局側を経由して帰ろうと線路下をくぐるルートで夜道を歩いていた。線路をくぐる道は坂を一度降りて上がるタイプの道で、その道を下りきって上り始めたところで、少し手入れの悪そうな自転車をシャコシャコとこぐ音が向かいの舗道から聞こえてきた。音のする方を見ると大学生くらいの若者だけれどかなりふとっちょの青年。しかし猛然とその坂を立ち漕ぎもせず高速で登って行った。疲れていたせいもあるが、その姿がいかにものんびりしたこの町に似合わなくて思わず笑ってしまう。その勢いは何かのレースのよう。何をそんなに急いでいるのかな?と得意の妄想をふくらませていたら、ひとりでに笑いがこみ上げてきた。しばらくして信号をわったところで前を見たら自転車の彼がいた。なんのことはないそこは新しく出来た焼き肉屋だった。その焼き肉屋に向かうために猛然と自転車を漕いでいたのだった。彼は焼き肉が食べたくて一目散に自転車を漕いでいたんだろうか…。その猛スピードの自転車を漕ぐ先が焼き肉屋だったことでなんだか平和な気持ちになる。が、しかし…その事実に、がまんしようと思ってもさらなるおかしさがこみ上げてくる。その時、頭の中に『チキチキマシン猛レース』(昔のテレビアニメ)の歌が浮かんできて、帰り道、心の中で繰り返し歌ってしまった。(やぎ)
   
2022年4月27日
『立憲民主党と国民民主党』  7月の参議院選挙で立憲民主党と国民民主党の略称がまだ決まっていないらしい。前回の衆議院総選挙では、両党が「民主党」を略称として届け出て、「民主党」と書かれた票を案分したと報道された。略称がまだ決まらないという記事を読んで呆れた。今回もお互いに「民主党」を主張しているらしい。さっさと話し合いで解決できないのだろうか。こんな些細なことに角付き合ってどうするのかと思うが、これが現実の両党の姿らしい。朝日新聞の「素粒子」が「りっけん」と「こくみん」でいいではないかと書いていたが、どのように決着するだろうか。(宮)
   
2022年4月22日
『甘える犬』  通勤で朝晩歩いている浅川土手の遊歩道は、犬の散歩道でもある。実にいろいろな種類の犬が散歩している。草むらに鼻を突っ込んで容易に動かない犬もいるが、今朝は犬を胸元に抱いて歩いている女性と出会った。いい天気で、せっかく遊歩道にいるのに歩かないで抱いている。しばらくして、女性は犬を地面に下ろして歩くように促した。ところが犬は歩きたがらず女性の足元でもっと抱いてくれとしきりに訴えている。人間の子どもが「抱っこ!抱っこ!」と大人に訴えかけている姿とまったく同じだ。女性は歩くように強く促すが、犬の方も頭と前足を使って頑強に訴えている。そのうち犬は足元の抵抗でなく、おすわりの姿勢を取ってしまった。座り込んだという感じで、どうしても歩きたくないようである。通り過ぎてから振り返ってみたら、犬は抱っこされていた。(宮)
   
 
『偶然に偶然が重なって』  先日実家に帰った時の事。普段兄弟たちとは同じ日に重なることのないように実家に帰るのだが、4月の2週目にたまたま、兄が風呂の修理のことで実家で一緒になる機会があった。私はというと家の中の要らないものを少しずつ整理しているのだがこれは夫が着られるかもというものとか、誰かが着るかもしれないものを仕分けていたので、一度見て判断してもらおうと、この時、一緒に連れてきていた。コロナ禍でもあり夫は父の葬儀以来わたしの実家には来ていなかった。本当に、たまたま久しぶりに兄にも会うことになったわけだ。その次の朝である。兄は近くの畑へお世話になっている人に頼まれて草刈りに出かけた。帰って来てから一緒に朝食をとったあと、整理して出たごみを車に詰め込み(近くのごみステーションに運ぶため)その足で帰っていった。

その後、私が2階で段ボールの中のものを整理している時だ。「おーい、まきこ。おまえの会社の著者と本が新聞に載っているぞ!大きい記事だぞ!」と夫が1階から叫ぶ。そして2階に上がってきて興奮してすごいなという。私も内心嬉しかったが平静な顔をしながら下に降りて新聞を見るといつも母が読んでいる毎日新聞ではなく千葉日報。兄が畑の帰りに地元のニュースを読もうと思いつきで買って帰って「読んだから、よかったら母さん読めば」と置いていった新聞だった。なんと記事は大きいだけでなく新聞の1面のトップだった。どうやら取材をしていただいていた共同通信で最近配信されたばかりの記事。通信社の記事は配信後、どこで掲載になったかをリアルタイムで知ることはほとんどない。兄は私の会社の本が新聞に載っているとも思わずに置いていったのだが、私がこの本を作るのをずっと見ていた夫がたまたまそれを見たから気づき、私に伝えるという偶然が重なった結果、普段はいないエリアで当日に掲載紙をみるという偶然に遭遇したのだった。運命の糸が手繰り寄せられたような嬉しい出来事だった。
(やぎ)
   
 
『かけそば』  少しずつ、仕事で外にでる機会が増えている。お昼は外でちゃちゃっと、でも無駄遣いはできない!そんな私にとって大変ありがたいのは、駅構内のお蕎麦屋さん。蕎麦好きなので、毎日でも飽きませ~ん。しかもかけそばで満足!ネギも大好きなので、蕎麦+ネギで十分なのです。ただひとつだけ、あったらいいなと思うのが、ネギ増しボタン。注文のときに「ネギ多めでっ」と言っていいと聞くのだが、何だか申し訳なくて言えない。なので、遠慮なくネギ増しできるボタンを、作ってくれないかなー。サービスの場合は、増しぐらい。50円だったら、増し増しくらいみたいなボタンを、ぜひ。(みなりん)
   
2022年4月15日
『余計なお世話』  聖蹟桜ヶ丘駅行のバスに乗ると車内放送が、多摩市からのお知らせですと切り出して、食生活の世話を焼く。夕食の献立が決まったら、冷蔵庫と家の中をよく見回して、足りないものだけを買いましょう、そうすれば無駄が出ること無く美味しく食べられます云々という。このあとに言葉を忘れたがもっと立ち入った余計な世話を焼いていた。食材が大量に捨てられたりしないようにという趣旨は理解できるが、朝たまたま乗り合わせたバスの中で、子供に教え諭すかのように生活の仕方を具体的に指図する、市役所が個人生活の中に入り込んできて余計なお世話を焼くのは不要だよと言いたくなる。(宮)
   
 
『おいくら?』  先日、実家に帰ったときのこと。お天気だったので母の運動もかねて近所に散歩へでかけた。あともう少しで家に着く道に入る手前で、久しぶりにお会いした母と同い年だというご近所さんが、これまた娘さんとお散歩しているのにでくわした。母が「〇〇さん?」と聞くと一瞬わからなかったようだがすぐに「久しぶり~」と嬉しそうな顔になった。その方はここには住んではいないがしょっちゅう来ていた人で、近いうちに家を売ってしまうのだそうだ。その時の会話。

母「お元気でした?」
ご近所さん「すっかり骨と皮ばかりになってしまって」
わたし「うちの母にはたっぷりお肉ついているのでよかったら差し上げましょうか?」
ご近所さん「ええ、いいんですか?ところでおいくら?」
わたし・母「いいえ、いいえ、ただですから好きなだけもっていってください」
ご近所さん「まあ。それはそれは」
みんな「あはははは」

とまあ私の冗談にもユーモアでかえしてくれるご近所さんの後ろ姿をみながら、なんていい間柄だろうと感心してしまった。年をとってもこんなふうに楽しく会話を返せる人でいたいなぁ。
(やぎ)
   
2022年4月8日
『戦争と市民生活』  連日テレビニュースはウクライナ戦争について報じている。報道の仕方について様々な批判があることも承知しているが、それをひとまずおいて、報じられている動きを見ているだけでもきわめて深刻な状況になりつつあることがわかる。
 ロシアのプーチン大統領の決断で引き起こされた戦争であり、その責任が重大なことは間違いないが、戦場になった都市の残虐な出来事が報道され、関係国や周辺諸国から、戦争犯罪を追及するという憤激の声が挙がっている。アメリカ大統領は、ロシアのプーチン大統領を戦争犯罪人と呼び、西側の国がウクライナ政府に武器を供与する。チェコは旧ソ連製の戦車を供与するという。戦費の援助や武器供与は戦争に関与するということだ。だが、これに対してロシアが「参りました、降参します」と言うはずがない。戦争は一段と深みにはまり、激しくなり長期化するだろう。その間、民間人の被害が増え続け悲惨な出来事が繰り返される。事態は甚だ悪い方向に動いている。
 戦争が始まってから1ヶ月余で眼前の泥沼状態になってしまったが、当事国を含め諸国政府はそれぞれの国益を考え、いろんな政策目的と思惑をもって行動している。市民の生活、生命を守るということを最優先の目標にしているとは思えない動きを続けているので、なるべくしてなってしまった事態ということなのだろう。それでも、他の道は無かったのだろうかと、いまさらながら思う。
(宮)
   
 
『別れの季節』  子どもの中学校の図書館司書の先生が異動になった。 私が子どもの頃は、終業式(もしくは卒業式後だったか)に、退職や異動する教職員が挨拶する離任式があった。今は、新年度になり、始業式でその事実を知る。離任式は5月。 都の採用の先生は、4月1日の朝刊に別紙になって情報が掲載されるが(都のHPでも見られる)、区の採用の先生や、司書の先生の異動は、始業式まで知るよしもない。基本的に在校生の保護者も事前に教えてもらえることはないので、始業式の日に、子どもからの情報で知ることになる。異動してほしくない先生が移動してしまったときのショックと言ったら……(゚Д゚;)ガ――ンと、こんな顔。 子どもはもちろん、私も図書館司書の先生が異動するの淋しい。異動先が隣の中学だと聞いても、やっぱり淋しい。本の話やその周辺の話、図書館のこと、学校のこと、いろいろな話を聞かせてもらい、生徒思いで図書館と本が大好きなとってもいい先生だった。次の学校でも、変わらず、元気で頑張ってほしい!(みなりん)
   
2022年4月1日
『新型コロナ感染者増加』  今週、東京の新型コロナ感染者が増加傾向を示している。全国でみても横ばいか若干の増加を示している。なかなかしぶとい動きだ。ウイズコロナなどと言って共存するべき状況だという説もあるし、欧米では規制を全面的に外す国まである。そのような政策の原因は、経済を動かしたいということと、一人ひとりの個人が自由な行動を束縛されたくないということにあるようだ。日本も欧米にならって規制緩和の方向に向かっているが、他方、ひとたび感染すると後遺症がなかなか厄介そうだ。多くの人が長引く後遺症に悩まされているらしい。ニュースで報じられている後遺症の中身は結構深刻なものだ。政府には後遺症対策をよく考えて政策の方向決めてほしいが、独自の方針というよりは、欧米の動きにあわせて決めているようで、相変わらず甚だ自主性のないやりかたである。(宮)
   
2022年3月25日
『大量離職』  ネットでニュースを見ていたらアメリカで大量離職が社会現象になっているという。感染リスクと隣合わせの職場で働く人々が、リスクと賃金が見合っていないと考えている。そんな状況の中で雇う側は賃金を上げて従業員を確保しようとする。働く人たちは仕事と職場を比較してより有利な仕事に就こうとする。結果として大量離職と賃金上昇がますます広がっていく。また政府の手厚い支援策により、慌てて仕事を探すのではなく、時間をかけて探そうとしている。アメリカでは1人当り37万円の現金給付を実施している。さらに失業保険を上乗せする特別措置により働くよりも収入が多く得られるケースもあるという。賃金が上がり、生活に余裕ができるわけで、アメリカでは、市民生活を支えるという経済本来の機能がはたらいている。翻って日本ではどうか。大手企業は空前の内部留保を溜め込んで労働者への還元はまことに微々たるものだし、政府のコロナ支援策は、する事なす事チマチマとしていて中途半端である。今話題になっている年金受給者に一時金5000円を支給するなどその最たるものだ。人びとが前途に希望を持って生きていくことができない社会になっていて、悪循環にはまったままのようである。(宮)
   
 
『季節を楽しむ』  日本には四季がある。今はその境目があいまいになったり、以前の季節の変化と今の変化はもしかしたら違ってきているかもしれない。夏の猛暑日が増えたり、台風の勢力も強くなり、冬も以前より寒さが緩んでいる気もするし。

日本はずっと四季と一緒に生きて来たんだなぁとこの頃思う。木々の変化、草花の咲く時期には四季折々の変化があり、それを日本に住む多くの人たちが楽しんでいることがわかる。春はとくにみんな嬉しそうだ。道ですれ違う人、SNSの写真や言葉、知り合いたちの会話から、その喜びが伝わってくる。鳥や他の動物からもそんな会話が聞こえてくるようだ。

自分は今までどうだったろうか?改めて考えてみると自分がどんなふうに四季を楽しんできたか全く思い出せないでいる。でも今は…そわそわとこの春の訪れを楽しんでいることに気づく。いろんな生き物や誰かのワクワクした気持ちが自分の中に入り込み変化したのかもしれない。そうなれてうれしい。
(やぎ)
   
 
『昔の自分に、励まされる』  パソコンの中の奥の奥にあった古い資料をたまたま開くと、約15年前に自分が書いた文章がでてきた。何かに掲載した文章なのか、そこに書かれていたのは、書店の児童書の担当さんとの交流のことだった(15年前に、10年前を振り返っている文章だったので、25年前のことか、ひょえー)。
少し抜粋して、ここに。

「東京郊外にある書店さんの児童書担当者Aさんと出会った。注文を頂いた新刊でも既刊でも動きがないことが続き、「今度こそ返品かなぁ」とうつむき加減でお伺いすると、「朔北社の本一冊では動かなかったけど、他の本と合わせて置いたら動いたよ」と、棚を見せてくれた。そこには、手作りのポップまで飾ってある。・・・・そして一言「この本を売りたいからがんばったよ」(―中略―)大好きな児童書について楽しそうに語り、気に入った本はとことん売りたいという、Aさんにあって話をすることは、私のパワーの源だった。」
「ある書店さんで、レジに入っていた児童書の担当の方を離れた場所で待っていると、担当者さんが急ぎ足で近づいてきて「早く、早く、こっちにきて」とレジに連れて行かれた。すると、そこには、朔北社の本を購入している親子が・・・・子どもが大切に本を抱えている。朔北社の本を購入していただく場面を初めて見た私にとって、それは例えようのない衝撃的な喜びの瞬間であった。」

どちらの担当さんも、どこかに異動されたり、辞めてしまわれたり、残念なことに今は交流が途絶えてしまっている。元気にしてるかな?

コロナ禍で思うように動けないし、世の中の流れにもついていけず、自分のやってきたことは何だったのだろうと、落ち込んだり、心折れそうなこともしばしば。けれど、もう少し頑張れそうな気がしている。(みなりん)
   
2022年3月18日
『ありえない判決文』  日産自動車のケリー元会長に対する判決が3月3日に下されたが、郷原信郎弁護士によるとケリー「有罪」判決は法と論理ではなく「主観」「政策判断」によって導かれた、法解釈上と文理解釈上ありえない内容のもので、「日本の刑事司法の惨状」を象徴する判決であるという。元検事の郷原弁護士にこのように批判されている判決文の箇所を具体的に説明している映像を視聴した。とりわけ、普通の日本語の文章として論理的に明らかに間違っている解釈を平然と判決文に書いていることには驚き呆れた。まさかこんな馬鹿げた文章を裁判官が書くなどとは誰も思わないだろうが、そんな盲目的信頼感を持ってはいけないのだ。郷原弁護士の説明は十分納得できるものだったが、新聞テレビは判決の結果を単純に伝えるだけなので、裁判官が書いた判決文の問題性はまったく伝えられていないのである。ゴーン元社長が「日本では公正な裁判を受けることが出来ない」と言って逃亡したことが正当な行動だったということにならざるを得ないと、郷原弁護士は嘆いていたが、そのとおりで、暗澹たる気持ちになる。(宮)
   
2022年3月11日
『便利な銀行』  高幡不動駅前の三菱UFJ銀行のATで現金を引き出そうとしたら、引き出せない。おかしいと思ってよく見ると千円単位で入力するようにという指示が出ている。2週間ほど前には出来たのに、機能が変更されている。千円単位でしか引き出せないというのは、店舗が無くなってあらたに駅構内に設置されたみずほ銀行ATMがそうだった。仕事がらみで使うときには不便で、三菱UFJを買っていたのに、同じく不便な機能に落とされてしまった。このとき駅の2階にあるATMを思い出し、こちらはどうなっているか確かめようと行ってみた。驚いたことにATM自体が撤去されていた。  銀行の経営が大変なことはときどきニュースになるが、大変さを乗り越えるために個人利用者に不便を強いるのは毎度のことだ。郵便局が小銭の入金を有料にするなど、ありえない処置だと思うが、強行される。  金融機関の存在価値がどこにあるのか、いろんな考え方があるだろうが、世の中の変化に単純適応するだけではいずれは消滅するのではないかとすら思う。たとえば近年「何とかファンド」という組織が多数存在するが、本来銀行が担うべき仕事をファンドに取られているだけではないのか。(宮)
   
2022年3月5日
『プーチンのウクライナ攻撃』  24日の侵攻以来ウクライナでは戦闘が続いている。テレビのニュースでその状況はいろいろ伝えられている。軍事力の圧倒的違いから、ウクライナ人ウクライナ軍が抵抗すればするほどウクライナの破壊が進み死者が増加する。世界の世論は圧倒的ウクライナ支持が強いが、だからといって、プーチンが軍を退くはずもなく、プーチンの言い分が通るまで、つまりウクライナ人がプーチンの言うとおりにするまで戦争状態が続く。歴史を見返すとソ連崩壊以来の米欧諸国とロシアとの外交交渉のなかで、約束したことが守られずロシアの不満が増大したということがあるらしい。アメリカのトランプ大統領がいい例だが自国の利益最優先で行動する国が強い力を持っているから、外交関係のなかで理不尽な結果を押し付けられてきたことがあるだろうことは想像できる。約束したことがあっさり反故にされたことがあるだろう。しかしだからといって、今回のように自国の主張を相手に飲ませるために軍隊を使う、他国を侵略することが容認されるはずがない。だが核兵器の使用までちらつかせて主張を押し通そうとするプーチンを翻意させる、侵攻を止める方法があるだろうか。今のまま推移すると、ウクライナ中が軍事力で滅茶苦茶にされて多数の死傷者を出してウクライナ人が抵抗できなくなって、初めて戦火は止むのだろうか。軍事力を背景に強引な主張を押し通すやり方は、ヒトラーを連想させるが、ヒトラーの場合には戦争を避けるために宥和政策が取られ、ヒトラーの意図が順次実現させていったのだが、プーチンの場合にも同じことになるのだろうか。核の存在があるだけに当時より対応の条件が一段と厳しくなっている。(宮)
   
2022年2月25日
『プーチンのロシア』  ロシア軍がウクライナに侵攻した。ウクライナの周辺に集結していたロシア軍が動きだし、ウクライナ軍の施設を攻撃、制空権を確保したなどど報じられている。ロシア軍は、ウクライナ東部の親ロシア派の2州ではなくウクライナ全土にわたって動いているらしい。これに対してウクライナ軍がどんな反応をしたのかは、まだよくわからない。とにかく戦争が始まったのは間違いない。
 たまたま岩波新書の芝健介『ヒトラー』を読んでいるので、ロシアのプーチン大統領がヒトラーに重なって見えてくる。独裁者の頭の中の妄想というべき国家構想が、何かの拍子に現実のことになって戦争が始まり、その結果が既成事実となって現実の世界になる。独裁者のそんな妄想を、眼前に見るとはまったく想像も出来ないことだったが、いやいや、現実にそういう世界を見ている。
(宮)
   
2022年2月18日
『満月』  17日(木)の夕方事務所を出て高幡不動駅に向かって歩き始めた。すでにすっかり暗くなっているので、浅川土手のすぐ脇を並行してはしる道を選んだ。土手の脇に出たときに前方に見えたのは地平線から昇り始めて間がないまん丸の月だ。満月である。いつもの2倍はあるかと思われる大きなオレンジ色の月の姿は、この地区に事務所があるからこそ見ることができる。大きな建物がなくて空が広いのだ。感動して、事務所で残業している社員に電話で、この見事な景色を伝えた。事務所を出る時間と月の満ち欠けのタイミングが上手く合うと、大きくオレンジ色に輝く満月に出会うことができる。(宮)
   
 
『おばちゃん化』  買い物してレジに並ぶ。今やどこでもポイントカードなどがあり便利でありがたいものだけれど、グズでだらしないわたしにとってはレジの会計は日々の緊張事項のひとつとなっている。まずポイントカードをトレーに出して、時には割引券なんかも出すこともある。レジの値段をにらむ。後ろに人がいなければいいが、たいていの場合は人が並んでいて、邪魔にならないようにと気が急くのである。なるべくお釣りが少ないように小銭も使いたいが、焦ると小銭がうまくつかめない。挙句の果て足りるかなと出し始めた小銭が一枚足りないなんてことがよくあるのだ。
 そしてある日定期入れに入れていたポイントカードを渡してから会計を済ませようとしていたら、定期入れのカードを差し入れる側を逆さにしてしまって何枚も入っているからきつくて落ちないケースから一枚カードを抜いたもんだから口が緩んだケースからカードというカードが全部床に落ちて散らばってしまった。
 後ろにはその日も人が並んでいて、とりあえず会計して後でまとめて拾おうとしたら、後ろに並んでいた20代の女性が全部拾って「はい!」と渡してくれた。しかしこともあろうに私がその時に最初に言った言葉が間抜けであった。「全部おとしちゃった~」と受け取りながら言ったのだった。言った後なんと間抜けな!と思うが、そんな私に彼女はふふっと笑ってくれたのでなんだか心が軽くなり、改めて目を見てから「ありがとう!」と告げることが出来た。その時も彼女は微笑んでいた。本当にいい子だったな。しかしまあ私ときたら、心の中そのまんまの自分の気持ちを赤の他人に口にするなんて…若い頃ならなかったなと思う。これが俗にいうおばちゃん化なのかもしれない…。
(やぎ)
   
 
『∨3だそうで』  2月22日が猫の日ということで、とある会社の「猫の名前ランキング2022」を見ましたら、総合ランキング1位は「ムギ」(=^・^=)だそう。我が家の母猫の名前は、他にあまりない名前にしよう!とつけたはずの「むぎ」(平仮名がポイント)だったのに、人気の名前だったとは……。息子猫の名前が「ちょこ」なので、合わせて「むぎちょこ」。ちなみに、「チョコ」はランキング外。(猫にチョコを食べさせたらダメだからかな?)ま、当の猫たちは、そんなランキングなんて知ったこっちゃない。今日も、明日も、猫の日だって、2匹はいつもと変わらず、「むぎ~、ちょこ~、ただいま」と帰宅した私の後ろを「にゃーにゃーにゃー」と、一日の出来事を話しながらついて回るのです。(みなりん)
   
2022年2月14日
『新型コロナ感染者数』  このところ東京の感染者数は前週を下回ってきた。全国の数字でも減少しているようだ。店の前を毎日通り過ぎている居酒屋のガラス越しに見える混み具合は、新型コロナの感染などどこの話かというぐらい密接、密集して飲食・歓談している。あんなに密接・密集していて感染が怖くないのかと思いながら見ていたが、何事もなかったようである。そして今東京では感染者が減少している。新型コロナ感染の「不思議な動き」を改めて感じる。感染しないための行動様式がいろいろ言われていて、ときに解説者の言うとおりの事例も無くはない。しかし、他方で原因不明の事象がいろいろある。結局のところ、よくわからないのだから、推奨されている行動をして感染を避けているつもりでいるしかない。(宮)
   
2022年2月4日
『事業復活支援金』  コロナ禍で政府は中小企業向けの支援策をいろいろ打ち出しているが、その最新策が1月31日から受付が始まった事業復活支援金である。これについてテレビニュースは最大150万円の支援金が、2年前の持続化給付金と違って、売上の減少率が50%から30%に緩和されて利用しやすくなったと報じている。しかし、これは政府発表の表面的な垂れ流し報道の典型で、内容についてまったく調べていない。
 最大150万円は、年間売上が5億円超の法人に対してであり、年間売上が1億円以下の場合、60万円の支給となる。どのみち本当に困窮している企業にとってはあまり助けにはならない金額である。そして「事前確認」という段取りを新たに作って「登録確認機関」に企業経営の細部を事細かにチェックさせる。事前確認のために、確定申告書に加えて売上台帳、請求書、領収書、通帳を数年分用意せよという。確定申告書を信用していないやり方である。
 というようなわけで、煩雑な事務処理を新たに大量に押し付けて、政府はコロナ禍において中小企業対策をやっていますよというポーズをとっている。おかしな事だらけだが、何とか生き延びるために、煩雑な事務作業をやらざるを得ないのが現実だ。
(宮)
   
 
『嫌じゃない?!』  腰椎圧迫骨折で年末に退院してきた母は、まだコルセットをしたままだし、今もあまり自由に動けない。普段一人暮らしなので週に2回のデイサービスに通いそこで風呂にも入ってくる。それなりに家の中を歩き回れるようになったが今の時期寒いし、もしもの時に風呂で一人で倒れたらと思うと家で風呂に入るのが怖いという。以前一人で風呂に入った時に突然目が見えなくなったことがあるし、年寄りがヒートショックでなくなることもあるので私たち兄弟も心配している。そんなわけで週末は誰かしらが母の元を訪問して一泊して帰って来る。昼間比較的暖かい時間に自分も風呂に入り風呂場や脱衣所を温めたあとに母のお風呂を見守る。必要に応じて手伝うことがあれば手伝うが基本は側でたわいないおしゃぺりをする。頭や体を洗い終え湯舟でくつろぐ母がおなかの肉を手でつまんでお湯の中で揺らしている。母はおなかの肉がたっぷりしているのだ。母に聞く。
私「ねえ、そんなお肉がついてて嫌じゃない?」
母「全然嫌じゃないよ」
私「そんなたぷんたぷんなのに?!」
母「うん、だって笑いがとれるじゃん?芸もできるし」といたって嬉しそう。
確かに入院中同室のかしましい年上のお婆さん達(96を筆頭に81歳の母が最年少の部屋だったらしい)にもちもちしてて肌がきれいだとか、鏡餅のようだとか言われて拝まれていたらしい。そうか、みんなに笑ってもらえる…そう考える人もいるのだと我が母ながら感心してしまった。
(やぎ)
   
 
『スキー合宿』  子どもが2泊3日のスキー合宿(学校行事)に行った。こんな時期に?と思われるかもしれないが、事前にPCR検査を受け、宿泊先でも厳しすぎるくらいの感染症対策をした上でのことだ。この2年間、学生生活の楽しい行事がどんどんなくなる中で、心配ではあるけれど、行けて良かったなぁというのが正直なところである。
出発の朝、ぎゅうぎゅうに詰まった大きなバックを持ち、うれしそうに玄関をでていく子ども……のすぐ後ろを家の前の道まで見送りに出る私。「え、外までくるの?」と言われても、気にしません! まっすぐ続く道を歩いていく後ろ姿、振り向くたびに大きく手を振る私。「もう~(-_-;)」という顔をしてるけど、何度も振り返っているので、多分嫌じゃない。何度も何度も手を振った。心の中で声をかける。
「楽しんできてね~、怪我しないでね~、ワスレモノないよね? タイチョウくずさないかな? スキーのタイツ、オナカきつくないかな? バスニヨワナイカナ?………」
そうしているうちに、ふっと思い出した。実家から東京に帰るとき、父に駅まで車で送ってもらうのだが、門の外に出てきて車が見えなくなるまでずっと大きく手を振っていた母の姿を。
「ちゃんとご飯たべてね、体調くずさないようにね、きをつけてかえってね、またかえってきてね、まってるよ、まってるよ」
そんなことを思っていたのかなと考えていたら、泣けてきた。家に入ると「え? 中学生が2泊3日のスキー合宿に行っただけなのに、なんで泣いてるの?」と夫。……ですよね。でもやっぱり、ちょっとさびしいのです。(みなりん)
   
2022年1月28日
『梅が咲き始めた』  1月20日は大寒だった。今週も厳しい寒さが続いているが、今頃は1年中で一番寒い時期らしい。そのさなかに梅が咲き始めたのを見つけた。今週初めに高幡不動から会社に向かって歩き始めて京王線の踏切を渡ると、線路際のお宅に白梅が咲き始めたのを見た。毎年恒例の風景だが、厳しい寒さの中で咲き始めるのが不思議に思える。毎日少しづつ花が増えていくが、とりわけ咲き始めの景色が気に入っている。近年は異常気象の話題が途切れなしに出てくるが、こうして時期が来ると梅が咲き、その次には桜が咲くはずで、季節が巡っていくのを目で見てホッとする。浅川土手の遊歩道は冬枯れの真っ盛りだが、梅はそんな環境を物ともせず咲き出す。会社の庭にある梅の木も蕾を膨らませてきた。(宮)
   
 
『挨拶』  昨日一昨日と門が閉まっていた都立農業高校。同僚に話したら都立高校はリモートなんじゃない?とのこと。感染が広まってくるといち早くリモートになるらしいという。しかし今日も休みかなと思ったら通常校舎から次々生徒たちが実習棟へ移動してゆく。今日はリモートではできない授業なのかもしれない。2-3人連れだって嬉しそうに歩く高校生たち。一人で移動してくる生徒もちらほら。私もそういうタイプだったなと思う。そのうちの一人の女の子が生徒たちとは逆向きに歩いてきた先生に弱々しく「おはようございまぁ~す」と言う。先生が「おはよう、なんか元気ねーな」というとその生徒は「あー元気ないんです」といいながらすれ違っていった。元気なくても自分から先生にあいさつする女子高生とその元気のなさにちゃんと気づいてあげられる先生がいることになんだかちょっと心にグッとくる朝だった。女子高生はなんで元気がなかったのか気になるが、気づいてあげられる先生がいるから大丈夫に違いない。(やぎ)
   
 
『募る思いが止まらない』  地元の長野に帰りたい。本当に帰りたい。コロナ禍になりもう数年帰っていない。いつになったら帰れるのだろう? 感染状況がすこし落ち着いていたこの間の年末年始も、悩みに悩んだ挙げ句、諦めた。諦めなければよかったのか?
 年が明けて「4年ぶりに諏訪湖の御神渡りが現れそう」というテレビのニュースを目にして、地元への郷愁の念、帰りたい気持ちに拍車がかかってしまった。毎日地元の新聞をネットで読むようになってしまっている。両親とはスマホでお互いの顔を見ながら話はできるが、近くて遠い。そこに写る顔がほんの少しだけ年をとったように見えて、心配でたまらなくなる(とても元気なんだけども)。昨年末は、地元に帰るのを諦めたいとこから「帰りたくてしょうがない、涙がでる」と連絡があり慰めていた側だったのに、今度は私が同じように「帰りたくてしょうがない」と同じく東京にいる妹に泣き言を言っている。こんなふうに帰れない日々が続くなんて、想像もしていなかったよ。(みなりん)
   
2022年1月21日
『思い出す阪神淡路大震災』  1月17日の阪神淡路大震災で西宮にいた兄一家が被災した。兄の次男からの電話で、兄が瓦礫に埋まって呼びかけても返事がないという。次男は怪我ひとつ負わなかったが兄は亡くなり、細君は瀕死の大怪我だった。あの日、とにかく現場に行こうと決めて朝9時頃家を出たが、現地についたのは夜中の1時だった。亡くなった兄は、警察の地下駐車場に着の身着のままの姿で横たわっていた。兄のところに辿り着くまでの道すがら、どんな揺れが来れば家がこんなにまで粉々になるのかと驚くような瓦礫の山をこえなければならなかった。翌朝見た街の景色は忘れられない。8階建てぐらいのビルが1階部分や途中のワンフロアがそっくり押し潰されていたり、ビルが激しく斜めに傾いていたり、自動販売機がひっくり返っていた。巨大な建造物である高速道路や鉄道がひっくり返っていた。とりあえず命が助かった細君は大腿部骨折の重症で、早く治療できる病院に移らなければならなかった。2、3日、夜は病院の廊下で体を休めて、昼間は病院探しに奔走した。そして、幸いなことに手遅れにならないうちに病院に移ることが出来たのである。(宮)
   
2022年1月14日
『蜂の巣』  長らく放置していたベランダに溜まった枯れ葉の山を片付け始めたら、エアコンの室外機のパイプに蜂の巣が出来ている。不気味な形にぎょっとしたが、今の時期ハチは活動していないようだ。すぐに自分で除去しても問題なさそうだが、片付ける前にインターネットでハチの巣の始末について調べたら、自治体は蜂の巣を直接取り除くことはしてくれなくて、処理業者を紹介してくれるという。ハチの巣の存在に気がつくのが遅かったので、真冬の今、自分で安全に取り除くことができる。
真夏の時期に、夜ガラス戸に虫がぶつかっているような音をよく耳にしていたが、その中にハチがまじっていたのかもしれないなどと、いまごろ考えるのである。なんとも迂闊な話だ。
(宮)
   
 
『新たな年の一歩』  
   年が明けた。毎年新年を迎えると新たな気持ちが湧いてくるのだが、9月末の義理の兄の死、年末のバタバタと新刊の準備やら展示の準備やら、骨折で入院していた母の退院やらいろいろ重なり今年の元旦は心新たな気持ちからは少し離れたところにいたように思う。仕事始めの展示準備を終え、ようやく少し日常が戻ってきた今、しんしんと寒い空気の中でようやく自分を取り戻してきたと感じている。雪に反射する日の光で心の中を照らしながら、今自分は何をしなければいけないか考える。まずは新刊を売ることを考えよう。届いた先にも元気のパワーを届けるためにも、自分自身も元気でいようと思う。初めは小さなものでしかないかもしれない。けれど待っているだけでは何も始まらない。まずは一歩を踏み出したい。今年もどうぞよろしくお願いします。

※7日に載せようと書きかけたものなのでちょっと時間軸がずれているがお許し下さい。
(やぎ)
 
『寛容』  コロナ禍もあり、テレビをみても、ネットをみても、世間の人は寛容さが足りない!と他人事のように思っていたが、自分のことを振り返ってみると、それこそ不寛容だ。細かいことが気になって、小言や愚痴ばかり。寛容さのかけらもない。いつまでもウジウジして、本当に小さい人間だ。
そんな自分にうんざりしていたお正月気分抜けない成人の日の朝。楽しみにしていた番組が始まる。NHKの生放送!「平野レミの早わざレシピ 2022初春」!!
密にならないよう、スタジオで料理するのはレミさんのみという形態も数回目。慣れない頃の、始まりからてんてこまい、やることもたくさんあって右往左往、ということも減り(ちょっと寂しい)、レミさんらしくおおらかに派手に楽しそうに「はい、こうして、こうして、ね、はい、でっきあっがりー」と、どんどん料理を作っていく。
別スタジオにいる他の出演者との掛け合いも、相変わらず楽しくて、大笑い。笑って、笑って、レシピがちっとも頭に入らないけれど、レミさんの楽しそうな姿を見ているだけで、こちらも楽しい。ああーやっぱり、この人のおおらかさって、別格だ!
どーんと目の前に完成した料理がでてくると、さっきまでの駄目な自分をまるごと受け入れてもらったような、そんな気分になる。すごい人。ありがとう、元気になりました。
番組の最後に新成人に向けて「人と比較しないで自分は自分だと思って一日一日を大切に過ごしましょう」ですって。新成人じゃないけど、心に刺さる。
次が待ち遠しいな。13弾がすぐにでも放送されますように! 待ってまーす。(みなりん)
   
2022年1月7日
『東京の大雪』  ニュースで「東京の大雪」と言われるのは、5センチとか10センチの積雪のことで、昨日(1月6日)も都心で10センチだった。道路で事故が続発し、路上で転倒して救急車のお世話になる人も出ている。夕方会社を出る頃は日野市でほとんどふっていなかった。夜のニュースでは、翌日の路面凍結に気をつけるようにしきりに強調していたが、今朝の道路は確かに凍結していて滑る。ところが浅川土手の遊歩道に出たら、太陽に照らせれた雪は殆ど融けていて両側の斜面だけ白く輝いていた。何度経験しても嬉しい景色だ。その遊歩道も桜並木まできたら、路面は雪は残っていないが、いま融けたばかりとばかり水っぽくなっている。太陽が直接照らしているところと日陰になっているところで、雪の解けかたがまるでちがうのだ。自動車が頻繁に通る道路でも日陰になったいると雪が残っていたり、凍結して危険な状態になっている。(宮)